2008.06.27

中古艇と英文鑑定報告書

従来ロシアや中国に出る中古ボートは裾物と決まっていた。
マンミョンボウ号?に積まれる中古自転車の如くである。

ところが最近、必ずしも裾物ではなくなってきた。
ちゃんとした品物をそれなりの価格で買うニーズが発生し取引が始まったのである。
それにつれてマリンサーベイの注文が出てきた。
国際的にはボートの取引にマリンサーベイは常識なのだが、日本の中古艇業界ではサーベイは定着していなかった。
しかしそれなりの価格で買うボートに、きちんとしたサーベイ・リポート(鑑定報告書)の添付を要求されるケースが出てきたのである。

そこで私の出番である。
<英文のサーベイ・リポートが出せますか?>の問合せが始まった。
<もともと英語で習ったのだから、英文リポートを出しますよ>と答える。

今日の午前中は4時起きで英文リポートを作成した。
(4時起きはスペイン-ロシアのためだけど)

~~~~~~
☆貼るポケット屋☆ にもそろそろ飽きてきたか。
ちょうど2ヶ月の熱中であった。

 

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2008.06.06

マイボートで地中海クルーズ

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同期の稲次哲郎君が三井物産をリタイア後42フィートのボートを購入して地中海に置き、毎年半分を船で航海し生活していることをご存知の方は多いであろう。
勿論私も航海当初からその壮挙を知り、強い関心と羨望の念をもってフォローしているものである。
しかし私は学生時代から稲次君とは面識がなかったところ、先日の50周年で初めて彼と対面し、挨拶したのであった。
彼は直ちに「船で暮らす地中海」(足立倫行 講談社 2003年刊)を送ってくれた。もう絶版となっていて私は入手出来なかった本だが、彼が無理して手配してくれたのであった。

これで私は彼の航海記を3つのメデイアで読んだことになる。
1.ヨット雑誌「KAZI」に2年にわたって連載された「グランドバンクス42で地中海クルーズ」
2.ルポライター足立氏による単行本「船で暮らす地中海」
3.朋友郡山史朗君が主宰?する小僧コムの看板コラム「稲次船長の地中海航海記」   である。
ちなみに彼のボートの艇名は「ハイドランジャー号」

それぞれについて軽い感想を述べる。
1.雑誌連載
  個人の航海者にとって、特に日本の航海者にとって地中海クルーズは夢である。
  海域の大きさ、海域の地形、海域の気象・海象はマイボートのサイズに適し、そして何よりも歴史の集積が圧倒的に航海者の心を唆る。
  そこには太平洋クルーズとは全く違うものがあるであろう。
  大いに期待して連載を読んだ。
  モータークルーザー(エンジンのみで推進する。時速約11ノット-20Km、ハイドランジャーの場合。)とセーリングクルーザー(セールとエンジンを併用する。時速約7ノット-13Km。燃料が切れても自航出来る。)とは走り方がまったく違い、航海に対する姿勢も思想も異なってくるのであるが、正直言って彼の最初の頃の航海記は私にはあまり面白くなかった。
  自分も航海者として、航海記は自分の航海のための参考書として読むのであるが、例えば最も知りたい海象の記述が少なかった。ボート乗りとヨット乗りの違いである。
  配慮すべきこと、記録すべきことにも欠落が多く、不満を感じさせた。
  当然である。彼はこの頃ビギナーだったのだ。
  しかし巡る港、泊地での出来事、多くの交遊は私にとっても夢の世界であった。

2.単行本
  足立倫行はよほど稲次船長の生き方に惚れ込んだものとみえる。地中海まで何度も足を運んでは航海を共にしている。
  サラリーマンを終えて、マイボートで世界を航海して回る男の姿、これは書き甲斐がある。これは多くの人々の心を捉えて、本も売れるだろうと思ったのだろう。
  そして彼の取材、彼の価値観で本をまとめた。
  航海部分だけでなく、稲次の生い立ち、三井物産での仕事、稲次を取り巻く人々などの記述が多い。いや、むしろそちらが主体かもしれない。
  そうだろう。足立は船を知らず、航海を知らない。ただ珍しく、面白がっているだけである。
  ただ、稲次のリタイア後の生き方に憧れてこの本を読む人にとっては、これが同じ目線なのかもしれない。
  国内でドサ回りの営業をしていた私にとっては、商社マンの仕事の実際は初めて知ることが多かった。彼が大変な努力家であることも知った。

3.SNSのコラム
  これはここ2-3年に書いたものだろう。初期の航海記とはまったく違っている。内容もあちこちで知合ったボート・オーナー仲間、泊地での人間関係などの記述が主体になる。
  船乗り仲間の交遊も、いきなり東洋からやってきた変なヤツと、毎年ラリーに参加する日本の紳士とは質が変わってくるのである。尊敬し、尊敬される人間同士の付き合いがここにはある。
  彼の観察はぐっと深まり、筆も伸びる。一番面白い。皆さん、小僧コムにどうぞ。

稲次君へ今後の希望
何時の日か、「ハイドランジャー号」を日本の港に繋いで欲しい。
イギリスのイエローブックの庭を巡るのもいいが、伊豆でオープンガーデンをやるのもいいものだ。

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写真の説明
自分の船を外から写真に撮ってもらうことは滅多にない。この写真はトルコのオーナー仲間が自家用機を操縦して「ハイドランジャー号」を撮影したものである。


 

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2008.03.18

円高歓迎の理由

昨今の円高で私は心浮き浮き、嬉しくて仕方がない。
実に楽しい。
不謹慎だ、などとそしる勿れ。私にはそれだけの理由がある。

1.40年も石油元売会社から給料をもらってきた。100%輸入品を国内に売る会社で育ったのだ。円高でえびす顔になるのは習い性である。
2.ボートが安くなる。買いやすくなる。5000万円のボートなら、この1ヶ月の円高で600万円安くなった勘定だ。
  ただ、乗り手として<買いやすくなった>と感じるか、マリン業界の一員?として<売りやすくなった>と考えるべきか、悩ましい。
3.時々PayPal決済で品物を買う。衣類とか、船用品とか、琥珀とか。これらがみんな安くなる。
4.そもそも円が高くなることは国威発揚で喜ばしいことではないか。

うちは輸出産業だから困るとか、日本経済的には云々とか、それはその立場の人が言えばよろしい。
私は円高万歳だ。

これからどうなる?
多分原油やガスが、ルーブル建て、元建て、ユーロ建てになっていくのだろう。

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2008.03.06

資格について

教わるのが嫌い、と書いた。すべて我流、と書いた。
「資格」についての思いを記そう。

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私は資格取得に関心がない。
資格をとって国家なり団体なりから権威付けを得る、あるいは保護を受けることにどちらかと言えば反発がある。
そういう性向の淵源を尋ねれば、やはり敗戦体験かなと思う。
敗戦後の1年余り、まったく国家の保護なしに生きた。特に引揚げの2ヶ月は保護者もいない裸の状態で生きた。
その経験が国家に頼る気分を抹消してしまったのであろう。
<身捨つるほどの祖国はありや>である。

今思えばそれでも日本人ということでの大枠の保護はあったのだろう。
日本人を抜けようとは考えない。

~~~~~~
船に乗りにくる若者の免許取得は歓迎する。
免許をとって船の操縦が出来るとは全く考えないが、交通法規の勉強は大切である。
陸と違って海の交通法規はだいたい世界共通である。
「愛宕」の見張り員は船の免許を持っていなかった可能性がある?

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会社勤めをしていた頃、「定年になったら免許をとって釣りをするんだ。」と言う人が多くいた。
私は言下に言った。「そりゃ駄目だ。その気があるなら今すぐ取りなさい。」
言われて取った人は1人もいなかった。

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よく「マリンサーベヤーに資格はないのか?」と聞かれる。
わが国にも英米にもない。
英米に国家資格はないが、サーベヤー協会の会員資格がある。
会員資格を得るには協会会員の下で何年かの実地経験を積む必要がある。
一種のギルドであろうか。

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NPO法人・日本中古艇協会という組織があって、「中古艇評価士」を養成している。
これはモーターボートの評価を行う技能であって、ヨットの評価はやらない。
国家資格に嵩上げしたいのだろうがなかなか財団法人にもしてもらえなくて、仕方なくNPO法人になった。
上納金が足りないのだろう。

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2008.03.04

仙台に行った

2日3日と仙台に行った。
仙台は私が就職して最初の赴任地である。
と言っても50年前の話だ。年寄りは何を言っても書いても昔の繰言か自慢話になる。

当時出光東北支店は国分町にあった。東北最大の繁華街のすぐ裏通りである。
支店の敷地内にバラック建ての独身寮があった。独身者は9名。
私と同部屋の先輩はバーのママと仲良くなり毎晩午前1時になると出掛けて朝帰ってきた。結局結婚した。
隣りに第百生命の支店があり、こちらは支店長社宅が併設されていた。独身者の1人がそこの娘と結婚した。
みんな若かった。

月に1回、主任会議というのがあった。
塩釜、気仙沼、釜石、八戸、青森、秋田、会津若松から所長が集まった。
会津以外はみな港町である。漁船に油を売っていた。
彼らが支店に現れると、肩で風を切ってその港の匂いを一杯に発散させた。

今回の仙台は七ガ浜という漁港でヨットのサーベイであった。
なかなか風情のある港ですっかり気に入ってしまった。

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2008.01.23

横須賀へ

今日は横須賀へ行った。
ハハ。病院通いではないよ。本業のマリンサーベイだ。

雨中で、鑑定の条件はよくないが関係者みんなの都合を急に変更するのは難しい。
一応装備は万全なのでヘソまで濡れることはない。

最近ガーデニングの仕事もぼちぼちあるが、やはり本業のマリン業務の方が嬉しい。
嬉しくなって帰途横浜高島屋でウールのシャツを2枚買った。
伊豆にはウールのシャツは売っていない。

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2008.01.14

ヨット関連のブログを独立

このブログのタイトル「黒潮丸のガーデニング通信」を見て、どんな方が訪れてくれるのだろう?
当然ガーデニング好きの方たちだろう。

ところが来て見ると内容はヨット関連や偶感が多くて、ガーデニングの話題になっていない。

一方ヨット関係の人がこのタイトルを見て寄ってくれるはずもない。

というわけで、このほどヨット関連の話題のブログを分離・独立させることにしました。
ブログ「黒潮丸の中古艇相談&マリンサーベイ」です。
どうぞよろしくお願いします。

ここにも一般的な海の話題は載せるようにします。

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2008.01.12

ヨット用語集5-青木洋

遂に青木洋さんの「ヨット用語辞典」を入手した。
さすがにこの短期間に3冊目のヨット用語集をあえて世に問うだけの特色のある辞典であった。
まさに「イラスト辞典」と言っていい。殆ど各語にイラストが付いているのだ。「図解辞典」とも言えるだろう。
平野游さんというイラストレーターが専属で描いている。

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21フィートの自作艇「信天翁」で世界一周をした青木さんももう59才だ。
ある出来事から、今後ヨット教育をライフワークにしようと決意したそうだ。
この「図解辞典」はヨット教育の原点だ。

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これで3冊揃ったので写真を載せておく。
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1.「ヨット、モーターボート用語辞典」(舟艇協会監修 舵社 2800円)
2.「実践ヨット用語ハンドブック」(高槻和宏 舵社 900円)
3.「ヨット用語辞典」(青木洋 舵社 1800円)

1.さすが専門家集団がまとめたものだけに格調高い。
2.ちょっと小型で、ハンドブックとして手軽に利用できる。語の解釈にところところ高槻節が飛び出して楽しい。
3.殆どすべての語にイラストが付くのだからビギナーには最高の手引書だ。語の解説は意外に手堅い。

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私のWeb「黒潮丸のヨット用語集」 も悪くないよ。

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マリーナは港湾か?

三河みとマリーナの開業前、保安部からマリーナへの出入りは日の出から日没までとするように指導を受けた。
私は、「港にはいつ何時どんな舟が助けを求めて入ってくるか判らない。港に戸を立てることは出来ない。」と拒否した。
マリーナは港湾か、否か。

何故この設問をたてたかというと、グッドウイルの営業停止の理由に「港湾労働への労働者派遣」が挙げられているからである。
マリーナが港湾なら派遣労働者は受けられない。

ま、それはそれとして、折口雅博は悪い男だ。コムスン(介護)でもグッドウイル(労働者派遣)でも、弱い立場から掠めて金儲けをした。
こんな男を経団連の理事にまで取り立てたのは誰だ?
私が思うのは元日銀総裁の速水優と経団連会長の御手洗富士夫である。
この3人が現代の三悪人である。
私の直感がそういっている。

折口といえばジュリアナである。日商岩井社員の折口がプロデュースした。一世を風靡した。
当時速水優が社長・会長であった。

マリーナプロジェクトを進めていた私なんかも、社会現象というかトレンドというか、勉強しておかなければいけないよとオジサン連で隊をなして見学に行ったものだ。
そんなある日、出光の私は日商岩井の訪問を受けた。折口と同じセクションの連中だった。
彼らはロン・ホランドを帯同していた。おお!
ロン・ホランドといえばレーシングヨットの高名なデザイナーである。世界で最初にFRPによるマキシ・レーサーを建造したヨット・デザインの先駆的リーダーである。
そんなロンも第一線のヨットデザインから退いてマリーナのデザインを手がけていたのだろう。それを日商岩井が担いで出光マリーナの売り込みに来たのだった。
私はロンの前で固くなっていたが、ロンは熱心に真面目に自分の考えを述べた。そしてアイルランドの自分の事務所に手配して1週間でパースを届けてきた。
遺憾ながら出光計画は既に決定して発注段階にあり、ロンのアイデアを入れることはなかった。

さて最初に戻ってマリーナは港湾であるか否か。
私は、港湾法には関係なく、マリーナは憩いの港であるべきだと思うのだ。

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2007.12.25

ヨット用語集4-なんと3冊目!

何十年もの間ヨット用語集がなくて不自由して、それで思い立ってなけなしの知識を振り絞って「Web-黒潮丸のヨット用語集」 を掲載したその途端に、立派な「ヨット用語集」が2冊も出版されていることを知った。

「ヨット・モーターボート用語辞典」舟艇協会監修-舵社-2800円-2005年刊
「実践ヨット用語ハンドブック」高槻和宏-舵社-900円-2006年刊

そしてまたなんと言うこと!
今日、また新たに「用語集」が発刊されたことを知ったのだ!
「インナーセーリング-ヨット用語辞典」青木洋-舵社-1890円-2007年11月刊

もう言うべき言葉がないよ。
たった2年の間に3冊も用語集が出版されるとはどういうことだ。

めでたいことだ。
ヨット知識の普及とヨット文化の興隆を願おう。

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2007.12.16

ヨット用語集3-高槻和宏・実践ハンドブック

高槻さんの「実践ヨット用語ハンドブック」が到着した。
参ったね。
やるんじゃなかったよ!

単なる用語の意味だけでなく、殆どの項目で彼の経験に基づく所見が書かれている。
まさに<実践ヨット(用語)ハンドブック>だ。

ふむ。
しかし私も乗り出した舟だ、投げ出すわけにはいかない。
気を取り直して研鑽を続けよう。

方針:
・項目の取上げは参考にするが、解説に同じ言葉は用いない。
・彼の経験を引用する時はその旨を記す。
・写真やリンクを多用する。

~~~~~~
実は高槻さんとはパソコン通信時代からのお付合いで、私の第1回マリンサーベイ講習会では講師にお願いした間柄なのだ。

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2007.12.14

ヨット用語集2

一昨日だったか、「わがサイトに<ヨット用語集>を掲載した。」と勢い込んでご報告した。
急に思い立って2日で作ったのだった。
嬉しくなって皆さまに宣伝したのであった。

落ち着いてAmazonを検索してみたら、なんと「ヨット用語集」が2冊も出版されているではないか。
舟艇協会のと、高槻和宏氏の「実践ヨット用語ハンドブック」(舵社)である。
こんな立派なものがあるなら、なにも私ごときが作ることはなかった。

ただ、自己弁護すればどちらもこの2年内に出た本である。まったく知らなかった。
長らく30年も40年も「用語集」が欲しくてしょうがなかった。今でも欲しい。
それが無いから、向う見ずにも思い立って自分で作ったのである。

とにかくこの2冊は発注した。2900円と900円であった。
早く届かないかな。照合して間違いや抜けたところを早く直したい。

自己弁護を重ねれば、私のはネットでタダで見られる。
ヨット用語集

高槻さん、許してね。本当に知らなかったのだから。


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2007.12.12

ヨット用語集

このほど私のサイト「中古艇相談とクルージング情報」 「ヨット用語集」を掲載しました。

もとより先人の築いた遺産の驥尾に付しただけのものですが、私なりのヨット&ボート普及啓蒙活動の一環と思っています。

どうかリンクしてご利用下さい。
まだまだ不備であり手入れを続けます。誤りなどあればご叱正下さい。

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2007.11.24

銚子マリーナでサーベイ

昨日は銚子マリーナでマリンサーベイだった。
好い日でよかった。
艇名、艇種、サーベイ結果などは一切書けない。

銚子マリーナはこれまで3回セーリングで入ったことがあるが、電車で行ったのは初めてである。
千葉から銚子まで丸々2時間かかったのに驚いた。房総半島はそんなに太かったか。
ここは建設計画の時からマリーナを出て遊びに行ける港がないのが欠点だと思っていた。
まさにそうらしい。
勝浦か那珂湊まで入る港がないという。4、50マイルあるだろう。小さなヨットで風が悪いと1日かかっても辿り着けない。

有名な回転寿司に入ったが、デカネタは大味で感心しなかった。

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2007.11.10

高層マンションの鉄筋手抜き-S社

ゼネコン大手のS建設が建設中の市川駅前高層マンションで、鉄筋の数量が不足していると大騒ぎになっている。
45階ものマンションで、そのうちの数階の鉄筋を間引いて120本浮かせてどれほどの得になるのか。とても意図的にやったこととは思えない。
下請け業者だって監督者はいただろう。S建設にも監理責任者はいただろう。
何故こんなことになったのか。

私が思ったのは、S建設の監理担当者は現場で鉄筋の数を数えるなんて仕事はしたことがなかったのではないか、ということだ。

私が現役時代、マリーナの建設で浮き桟橋(ポンツーン)を設置することになった。
多くの売り込み業者から次の4社が残った。
米系M社、ブリジストンタイヤ、日本郵船、米系Me社をかついだS社
そして最後に浮桟橋を支える杭の本数の検討になった。
前の3社はほぼ60本必要で合致したが、S社だけは164本必要と言って譲らない。
「世界一の製品を世界一のエンジニアリング会社が担いでいるのだから絶対に間違いはない。」と言い張る。
当方のコンサルグループ、出光エンジニアリング、日建設計、東亜建設工業も、相手がS社とあってはっきりと物を言わない。

結局S社が水槽実験をやることになり、習志野の日大まで行って大掛かりな実験をして見せられた。
その時驚いたのは、出てくる人出てくる人みんな博士とか技術士とかの肩書きを持った偉い人ばかりだったことだ。
そしていろいろと説明してくれた。
S社がこれだけの実験をやれば、これがわが国のポンツーン杭設置の技術基準になるのだろうと思った。
しかし私には戦艦大和に当たる波力の計算をしているとしか思えなかった。
われわれが相手にするのは一寸法師のお椀の舟に当たる波の力だ。
博士たちは素人とまともに議論しようとしなかった。
結局S社を採用しなかった。

私は市川マンションの鉄筋担当も博士だったに違いないと思うのだ。なにしろ世界一のエンジニアリング会社だから。

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2007.11.02

NOVAの教師

1995年にNZの16歳の高校生を交換留学生で1年間わが家に預かった。名前はケイティ。
当時私はマリーナ建設で豊橋市に住んでおり、彼女は時習館高校に通ったのであった。

ケイティは帰国後オークランド大学を卒業し、再び日本にやってきた。NOVAの教師としてであった。
私は伊豆高原に移っており、彼女がNOVAから与えられたアパートは藤沢で、よく遊びに来た。教師仲間の友人を連れて遊びに来た。
彼ら彼女らはよく旅行をするようであった。
ちょっとした休みをとっては中国をはじめアジア各国を訪れていた。
ケイティは中国からロシアに入り、汽車でヨーロッパに行く旅行もした。
どうやらNOVAは彼らがアジア各国を見聞するための拠点になっているようであった。

ケイティはその後NOVAの教師仲間のイギリス人と結婚し、今はバーミンガムに居る。
ケイティの妹もNOVAの教師をやり、教師仲間のオーストラリア人と結婚した。
NOVAはまた彼らの青春の場所、若者宿のようでもあった。
文部科学省のどんなプロジェクトもNOVAほど多くの海外青年を日本の文化に触れさせてはいないのではないか。

添付の写真はケイティのオークランドでの結婚式である。

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別の話。15年前のこと。

当時私はヨットを東京湾マリーナに繋いでいた。
若い友人が時々自分の<英会話の先生>のカナダ人の青年を連れて来た。
ある時、なんでもアブダビで<いいお金になる>仕事があると言って出て行った。

ところがしばらくして彼が舞い戻って来た。話がうまくいかなかったらしい。
加えて、帰日してすぐ電車の中で全財産を盗られたという。きっと眠り込んでいたのだろう。
日本に戻ったばかりだからそれこそ無一文、無一物である。ホテルに泊る金もない。
カナダ大使館に行けと言ったがグズグズしている。行けない理由があったのかもしれない。
英会話教師の仕事はすぐにあるのだが、さしあたってアパートを借りる金もない。
(当時はNOVAのようにアパートを提供する慣習がなかったかもしれない)
それで、いささかのカンパをし、わがヨットに泊めてやったのであった。
数ヶ月続いたか。

私は今でもヨットに寝泊りする生活に憧れている。

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2007.10.30

ソマリア沖で小型ボートを撃沈

パナマ船籍-日本海運会社運航のタンカーがソマリア沖で海賊に乗っ取られ、米駆逐艦が追尾して曳航していた小型ボート2隻を撃沈したそうである。
タンカーはソマリア領海に入り、米は領海内進入の許可を得た。

ソマリア沖とはインド洋で、日本海上自衛隊が石油の補給活動を行っている海である。

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2007.10.24

赤福御殿

もう10年以上まえ、英虞湾にしょっちゅう入っていた頃だ。
御座岬を過ぎて、ヤマハ合歓の里から左手奥に入って行くと、小高い丘の上に瀟洒な洋館が建っていた。
すぐ下の入り江には大きなモータークルーザーが舫われたいた。
「赤福御殿」ということだった。

このところ売れ残り品の再販で叩かれ続けている赤福の社長は2年前からの社長だそうだ。
あの別荘を建てたのも、モータークルーザーを買ったのも、売れ残り再販を始めたのも、この社長であり得ない。
先代の社長に違いない。

マスコミは売れ残り再販を始めた張本人の顔をTVに出すべきだ。

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2007.09.07

台風の進路

昨夜の台風は伊東の上を通って小田原に上陸したのだそうだ。
あちこちからお見舞いを頂いた。どうも有難うございました。
幸いわが家も周辺もさしたる被害はなく、無事に朝を迎えた。

一昔まえなら必ず海岸に行って打ち寄せる波を眺め、帰って妻に叱られたものだが、さすがに最近は自重している。
それにしてもサンライズ・マリーナはどうだったか、見に行かずばなるまい。
それに稲取も。
もう随分昔、稲取のあの外堤防のケーソンが2本、台風でスポンと抜けたことがあるのだ。波の力はそれほどに怖ろしい。

そういえば三河みとマリーナを造っていた頃、すぐ対岸の海陽ヨットハーバーの防波堤が100メートルにわたって倒壊したことがあった。
マリコン(東亜建設工業)の推薦する防波堤がいかにも大きく頑丈で、さんざん文句を言ったものだが、自然の威力を目の当たりにして言うことを聞いてよかったと胸をなでおろしたものだった。

今回の1番の被害者は犬のロビーだ。
風の音が怖くて餌が食べられない。餌に向かうのだがすぐに我々の足元にきてうずくまる。
カミナリを怖がるのは承知だが、風にこれほど怯えたのは始めてだ。

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2007.06.27

草月流武田陽信とシドニーホバートレース2

武田陽信の<Vago>が参加した1969年#25シドニー・ホバートレースに関する「舵」誌の記事は次の4本であった。

69/11 「シドニー・ホバートレースを語る」 対談大儀見薫:大沢浩吉
  対談で大儀見氏がレースの歴史等について既に多くの知識を集め、前年米艇のクルーとしてこのレースに参加した大沢氏からレース現場の知識を得ようとしていることが判る。
69/12 「日本のクルーザー<Vago>」 武市俊
  武市氏は日本の数少ないレーシングヨットのデザイナーである。このリポートにより<Vago>が設計当初より大儀見氏をリーダーとしてシドニー・ホバートレース参加を目指して建造されたことが判る。
  武市氏はオーナー武田陽信より「日本で作り得るベストの外洋レーサーを作ってくれ」と言われたと記す。当時(現在もそうであるが)ヨット用金具備品など国産品がなく専ら輸入に頼ったが、オーナー武田氏が率先手配入手してくれたと記す。武田氏は雑貨輸入会社オーナーでもあった。個人輸入もネット通販もない時代である。
  なお武市氏は1991年ジャパン・グアムレースにおいて<タカ号>で遭難後救命ボート内で死亡した。6名が乗り移ったが佐野三治氏以外は死亡。
70/3 「シドニー→ホバート・レース」 無署名
  レースの概要に関するリポートであり、詳しい。
  79艇出場のこの国際レースにおいて21位の成績は素晴らしいと評価出来る。
  先の武田陽信氏の写真はこの記事中にあった。しかし特に<Vago>に関する記述、<Vago>からの発信はない。
  このレースの優勝艇は<Morning Cloud>、オーナー・スキッパーは英保守党党首エドワード・ヒースであった。ヒース卿は翌70年-74年の英国首相である。
70/4、5 「<バーゴ>の航海日誌」 大儀見薫
  レース艇<Vago>のスキッパーによるログ・ブックである。GPSのない時代であり、ヌーンサイト、スターサイトが懐かしい。
  乗員はスキッパー・大儀見薫、オーナー・武田陽信、武市俊、ドナルドソン中尉(気象担当)、村本、大沢、山下の7名であった。
  オーナー武田の言動に関する記述は全く無い。

このように<武田陽信>の実像を求めて資料を探したが<武田陽信>の姿はさっぱり見えない。
私はその理由を次のように考える。
1.「オーナーは金だけ出して口を出さないのがよい」とする美学が一部にあり、この当時にはその気風が現在より強かったかもしれない。
2.レース直後の70年1月草月流に脱税容疑の査察が入り武田は渦中の人となった。スキャンダルだけに本人もマスコミも露出を控えたのかもしれない。
3.武田自身が出しゃばりでなかった?
4.大儀見薫の性格?
  記事全体を通して大儀見薫の存在ばかり大きく出て、オーナー武田の影が薄い。これは大儀見の性格によるのではないか?
  大儀見氏は豊富な知識経験を生かして長らくNORC(日本外洋帆走協会)の各種委員会において指導的立場を果たした。シドニーホバートでの21位、<波切大王>によるメルボルン大阪ダブルハンド優勝など実績も残している。ヨット界の功労者である。しかし非常に癖の強い人物だったようだ。
  詳しくは知らないが氏はリーダーズダイジェスト日本社のオーナー一族であった。戦後の一時期一般人には入手出来ないほど人気のあった雑誌である。その最後の編集長塩谷紘氏が「リーダイの死 最後の編集長のレクイエム」において経営陣に痛烈な批判を残しているという。<雑誌出版社でありながら本業に力が入らず社員の士気が低く、そのくせ外資系会社の給与体系で高コスト体質。まさに潰つぶれるべくして潰れたともいえる>
  私は出光在籍時一度大儀見氏の訪問を受けたことがある。「ポーランドで安い帆船を見つけた。絶対に安い。出光も一口乗ってくれないか。」多分現在の<海星>である。私にはなにか儲け話を持ち込まれたように聞こえた。
  NORC副会長だった大儀見氏がどうして協会から消えたのか私は知らない。

日本セーリング連盟(JSAF JYAとNORCが合併)のボード「日本ヨット界の歴史」には、スキッパー名ではなくオーナー名で記録が残る。
<1969年 シドニーホバートレースに武田陽信氏の<バーゴ>が参加>

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2007.06.25

草月流武田陽信とシドニーホバートヨットレース

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先に「馬とヨットと花と」と題して、草月流勅使河原霞の夫武田陽信が<咆える40度線の荒れるシドニーホバート・ヨットレース>に日本艇として初めて参戦したことを書いた。参照
しかしその時はレースの状況に関して何の情報もなかった。

本日、いろいろあって痛む左腕を抱えながら上京し、時間を割いて千駄ヶ谷のスポーツ図書館に寄り、舵誌の69年70年分を跋渉していささかの情報を得た。
細かくはいずれ報告するとして、とりあえずレース結果と武田陽信の写真だけを送ろう。
武田の木造34F艇<バーゴ>は1969年12月26日シドニーをスタートし、4日あまりでタスマニア島ホバートにゴールした。出艇79艇中21位であった。

写真は2枚あった。
天下の草月ファン諸姉よ、これがあの令名を馳せた草月流跡取り勅使河原霞が「草月を捨ててでも」と奔った男武田陽信でありますぞ。彼はその時2児のある既婚者であった。
この厳つい顔。なにか勅使河原蒼風に似ると思うのだが如何?

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2007.04.27

クルージングの予定変更

GWの直前になってクルージングの予定が変更になった。

計画ではヨットGは下田を出航して九州を時計廻りにまわり、瀬戸内海を抜けて帰航する予定だった。
メンバーはオーナーのKさんと御前崎の船虫さん。
私はスタートの下田-高知と、長崎-広島を乗せてもらう予定だった。

しかるに船虫さんが急に都合が悪くなり、延期になった。
誰にでも都合はあり、仕方のないことだけど。

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2007.04.17

*AOA*これまでの提案種目

アテネ大会における水上競技種目を別信したが、AOAにこれまで提案のあった新規種目は次の通りである。

遠泳(距離未定)
フィン付きスピード競泳
素潜り
水中ボクシング 騎馬戦
ジェットスキー・ジャンプ
カヤックサッカー
3.6mタンデムボートによる6マイル漕艇
室内造波プール-サーフィン
室内造風プール-ディンギーレース
釣り糸遠投

今後新規種目の提案は殺到するものと思われる。
提案の言語は当分の間、日本語、英語とする。
*AOA*事務局長

提案はこちら

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2007.04.16

*AOA*-アテネ大会の水上競技種目

ちなみにアテネ大会における水上競技種目は別表の通りであった。

52種目を数えるが、われら「水上オリンピック」期成同盟としては100種目以上の競技開催を目指さねばならない。
各人挙って新規種目の考案に奮励努力されたい。

AOA総裁 黒潮太郎

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2007.04.13

「水上オリンピック」独立運動再開

思えば「水上オリンピック」の独立宣言を発したのは1998・2であった。


爾来9年活動を休止していたが、有志の志しやみ難く、ここに活動を再開するものである。

再開宣言
提言のページ

「水上オリンピック」期成同盟
総裁 黒潮太郎

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2007.04.04

熱海港遠望

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昨夜は満月のはずだが曇っていて見えなかった。

今日所用で熱海に行き、久しぶりに熱海港を見て来た。
かって、正面の護岸がテトラの頃、ここにマイボートを繋いでおけばなんらかの権利になるのではないかとさもしい根性で、しばらく置いたりしたものだ。
テトラの間隙は非常に広く、昇り降りが大変だった。
ずっと繋いでおいても結局は何の権利にもならなかったと思う。しかしそれくらい泊地に苦労していたのだ。
若き?日の思い出の1つである。

写真は後楽園ホテルの18階から撮った。

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2007.03.25

馬とヨットと花と-2

昭和20年代の後半から30年代にかけての、あの華道界を包んだ熱気は何だったのだろう。
当時、日本の女性はすべて華道の免許を求めて教室に通ったのではなかったか?

華道免許の本山は池坊である。室町以来の華道の家元として、国内の諸流はすべて自派の末裔であるとする。
それに対し、戦後の民主化ムードの中で家元制度に反発して各地に起こった新興いけばなの雄が勅使河原蒼風の草月流であった。
昭和30年当時、池坊200万、小原流100万、草月流70万と言われたが、成長率では草月流が群を抜いていた。
蒼風は「池坊は45代、小原流は3代にくらべ草月はまだ1代だ。わしの時代で追いつき、追い越してやる」と豪語した。
その活動は次第に国際化し、フランスの芸術文化勲章、レジョンドヌール勲章の受章、ニューヨーク「20世紀博・世界の彫刻家20人展」に招待出品するまでに至る。
そして東京青山に壮大な草月会館を建設し、反発したはずの家元制度の確立を進める。
その中心に据わるべきが娘の勅使河原霞であった。
まだ20代になったばかり、その美貌とあわせまさに社交界の華であった。

あろうことかその霞が家を出たのである。1956年(昭31)のことである。
「草月を継ぐことを放棄してでも、あの人と一緒になります。」
霞24才。武田陽信34才。武田には妻と2児があった。

武田は海軍の情報将校を経て商社に勤務していた。
身長180センチ、空手・剣道・柔道など計6段の偉丈夫であったという。
日頃女性に囲まれた男性しか見ていなかった霞には強烈な魅力だったのだろう。
裏千家3男との縁談が進んでいた中を、霞は武田のもとに奔った。

「許さない」と怒った蒼風も、結局は折れ、のちに霞の草月への復帰を乞う。
武田は独立して繊維・雑貨の商社を起こし、草月流の品物を扱うようになり、また草月流の経理の責任者となる。
そして1969年12月、シドニー・ホバートレースに参戦したのであった。

1970年1月、草月会館および全国27ヶ所を200人の国税局査察官が襲った。
巨額の脱税疑惑である。
蒼風は霞に言ったという。「霞、お前にまで苦労をかけたね。」「いいえ、お父さま。」「・・・これで終わりか。」「そんなことをおっしゃらないで下さい。」「・・・でも芸術院会員になるのは、もうおしまいだね。」かっての前衛いけばなのリーダーがこう言ったという。
武田陽信は経理の責任者として、一切の責任は自分にあると主張したが、巨大な家元組織には武田の知らない金がいくらでもあるのであった。
<このあたりの華道界に関する記述は「華日記-昭和生け花戦国史」(早坂暁-小学館文庫)による。幸いまだ入手可能である。>
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<武田陽信のシドニー・ホバート挑戦については他に情報がない。「舵誌」の記事がないかと国会図書館に検索したが「舵誌」の保存はなかった。>

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いけばな革新の運動は戦前に発する。
「日本新興いけばな協会」の設立を目指して6人が集まった。重森三玲、藤井好文(評論家)、中山文甫(未生流)、桑原宗慶、柳本重甫、勅使河原蒼風である。1933年、重森三玲が「新興いけばな宣言」を起草する。「懐古的感情を斥ける」「形式的固定を斥ける」「道義的観念を斥ける」など家元制度からの解放を目指すものであった。この中に33才の蒼風がいた。
結局協会は設立されずに終わった。
<いけばな革新運動については労作「前衛いけばなの時代」(三頭谷鷹史-美学出版)に詳しい。>
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日本美術学校を出て画家、華人を目指した重森三玲はその後日本庭園の美に魅せられる。庭園が各地で荒廃し散逸していくのを惜しみ、独学で学んで全国の庭園を測量してまわる。その数300に及ぶ。1939年、「日本庭園史図鑑」(26巻、有光社)を出す。
アカデミズムの世界にない彼がこの作業を行い、書物として刊行するのにどれほどの困難を極めたか。
その後彼は作庭家として名をなし、測量した庭も500として1976年「日本庭園史大系」35巻を刊行する。
私は重森三玲の庭園測量の業績を文化勲章に価すると評価するものである。

~~~~~~
「テヴィス・カップ・ライド」に挑戦した蓮見清一の物語を読んで、私の想念は「シドニー・ホバートレース」「武田陽信」「勅使河原霞」「勅使河原蒼風」「重森三玲」と飛んだのであった。
「アラビアンホースに乗って」(蓮見明美)はそんな飛翔をいざなってくれた。

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2007.03.23

馬とヨットと花と

「アラビアンホースに乗って」(蓮見明美著、洋泉社、04/6刊)という本を読んだ。
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60才を目前にした、それまで馬に触ったことも乗ったこともない男がたまたま米国の長距離耐久乗馬レースをTVで見て、「わが人生で為すべきことはこれだ!」と一念発起し、一から乗馬の訓練を始め、あらゆる艱難を克服してその翌年に米国で最も過酷なエンデュランス・ライドと言われる「テヴィス・カップ・ライド」を完走した物語である。ちなみにこの時の完走率は49%だったという。

耐久馬レースはエンデュランス・ライドと呼ばれ、スピードよりも、人も馬も障害なく完走することを第一義とする。
「テヴィス・カップ・ライド」の正式名称は「ウエスタン・ステイツ・ワンハンドレッド・マイルズ・ワンデイ・ライド」であり、その名の通りシエラネバダ山中の100マイルを24時間以内に走り切らねばならない。人か馬かヘリコプターしか近寄れない峻険な山道を頑健で俊敏なアラビアンホースに乗って文字通り踏破するのだ。標高1500-2700メーターの土地を上り合計で5000メートル、下り合計で7000メートルを走る。夜は漆黒の闇である。
詳細はここをご覧あれ。アラビアン・ホース・ランチ

スタート地点に立つことすら難しいと言われるこのライドに挑戦し、見事完走した男は蓮見清一という。出版社宝島社の社長である。
そしてライドそのもの以外はすべて行を共にし、このリポートをまとめたのは蓮見清一の妻蓮見明美である。

実はこの本、某氏から恵送を受けたのだが私が読むより先に妻が読み、私が読んだらすぐに自分の友達に鳴り物入りで貸してしまった。それほど面白かったのだ。
おかげで私が感想を書こうにも原典が手元にない。

私は読後の感想を書くにあたり、この物語を何に比すべきかを考えた。
私が知るのはヨットの世界である。「テヴィス・カップ」に比すべきヨットレースがあるだろうか?
この耐久レースは競馬場のパドックを走るのでも馬場馬術でもない。原野を走り抜ける。
となればインショア・レースではあり得ない。オフショア・レースである。
国内のレースでオフショア・レースは何か?鳥羽パールの名が上がるかもしれないが、これは沿岸コースで本格的にオフショアとは言い難い。
八丈とか小笠原、沖縄レースということになろうが、実はどのレースも参加艇不足でこのところ成立していない。
それと、実施海域の条件がそれほど厳しいというものではない。テヴィス・カップのコースは厳しさを求めて設定されている。
勿論ヨットレースは気象条件によってどれほどにも厳しくなるが、コースそのものが厳しい海域とは言えない。

国外に眼を転じて、どんなレースがあるか。
アメリカズ・カップはインショア・レースである。
アラウンド・ザ・ワールドの各レースはちょっと比較にならない別物だろう。
アドミラルズのファストネット、トランスパックのアラウンド・ジ・アイランズなどの名が浮かぶが、これらも<厳しい海域>ではない。79年のファストネットの大事故は記憶に生々しいが海域のせいとは言えない。

そうだ、シドニー・ホバートだ!
どんな解説にも<荒れるシドニ・ホバートレース><咆える40度線>の形容詞が先に立つ。
シドニーを出てタスマニアのホバートに至る630マイルのコースである。毎年クリスマスの日にスタートし、大晦日前にゴールする。
このレースの厳しさはヨット乗りの知るところだ。多くの場合完走率は50%という。
オーストラリア人はこのレースに生命を燃やす。

テヴィス・カップへの挑戦は、シドニー・ホバートへの挑戦に比すべきではないか?
シドニー・ホバートレースに挑んだ日本人はいるのか?
私の頭に<武田陽信>の名が浮かんだ。微かな記憶である。たしか武田陽信という男が参戦したはずだ。
やっと日本セーリング連盟の「JYAとNORCの歩み」のページに、ただ1行の記述を見付けた。
「1969年:シドニーホバートレースに武田陽信氏の<バーゴ>が参加」
残念ながらこれ以上調べる手がかりがない。

武田陽信とは何者か?
勅使河原霞の夫である。
―続く―

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2007.03.16

ボートショーに行った

ジャパン・ボートショー2007に行った。今年から横浜みなとみらい地区での開催に変わった。
横浜そごうの裏手から出ているシーバスに乗って海から会場に入った。
ボートショーは昭和37年に始まり今年で46回目だそうだ。
そのうち35回は通っているだろう。
もう自分のヨットを選ぶ夢もなくなり、マリーナの経営者であることも引退してしまって、気合は入らないのだが、それでも通う。
行けば知った顔に会うのが嬉しい。
ボートショーの昨年の入場者は3万7千人だったそうだ。
今年は5万人目標という。横浜市港湾局が力を入れているからこれからが楽しみだ。
なお先月後楽園ドームであったラン展は20万人以上の入りだという。
マリンは狭い世界だ。

S君に会った。
彼は出光タンカーの船長をしていたのを、出光三河みとマリーナのハーバーマスターに譲り受けたのだ。
彼の熊本の実家にまで口説きに行ったことを思い出す。
その後彼の仕事人生も紆余曲折があったようだが、立派なマリーナのプロになって今は広島にいる。
会えて嬉しかった。

I君に会った。
彼は今ベネトウを関西で売っている。
かって出光マリーナの客にスワンを売り、一緒にフィンランドに行った仲だ。
元気な顔を見てしばらく話し込んだ。

しかしいろいろ会うが、みんな年下の友人ばかりだ。私と同年輩以上の顔見知りには殆ど会わない。
これは淋しい。

1本のフロートに両ひれが出ていて、フロートの上に立ってハンドルを漕いで推進する妙な乗り物を見かけた。
近くに立っている男性が作ったのだそうだ。「あなた1人で考えたのか?」と聞いたら、「堀内先生の指導を受けた。」という。
「堀内先生って、あの亡くなった?」と思わず言ったら、何やら目配せして私の後ろを指差す。
なんと堀内浩太郎氏がそこに立っていた。幸い先生には聞こえなかったようだ。
堀内氏はローマオリンピック、東京オリンピックのボートの監督だった。「調和漕法」で一世を風靡した。
その後ヤマハに移りマリン事業部長として君臨した。彼の開発したフィロソフィー45というヨットはあまりに斬新なコンセプトで遂に売れなかった。
そのご本人が横顔を見せて立っていた。とてもとても83才には見えなかった。

ボートショーへのアプローチは華やかさに欠けた。
ヤマハもトヨタもニッサンも、ブースに迫力がなかった。
みんな初めての会場で様子が掴めなかったのだろう。許してやろう。
屋内展示から食堂に寄って海上展示場に行ったが、案内不十分で無駄足を踏んだ。
これも許してやろう。
来年から頑張ってくれよ。

あれこれ嬉しくて、シナコバのシャツを50%OFFで、ヘリーハンセンのデッキシューズを40%OFFで買った。

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