昨夜名古屋のFさんという人から電話があった。いきなり、
「武田さんのお墓に詣ってきました」と言う。何のことやら?
武田陽信という男がいた。
この男、勅使河原蒼風が草月流の跡目と定めた愛娘勅使河原霞を攫った男である。
霞24才、その美貌と立場から当時天下一の女性であった。対する武田は34才、妻と2人の子供がいる商社マンであった。霞はこの男にのぼせ、「私は草月を捨てます」と言って奔った。
天下の大事件であった。昭和31(1956)年のことである。
数年後武田はシドニーホバートヨットレースに参加する。吠える40度線と呼ばれる海域を走る過酷なレースとして知られる。武田は日本人として初めて海外の大レースにチャレンジした男であった。60数艇中34位の成績であったという。
小林正和という男がいる。
1985年頃、英虞湾内に基地を構え「ベンガルベイヨットクラブ」としてアメリカズカップへの挑戦を表明した。そのオーナーが小林正和であった。名古屋のビル賃貸業者であったという。
資金が尽きたか、1990年には撤退する。しかし私は敢えて最初に孤軍旗を揚げた小林の意気を壮とする
SB食品の山崎達光もア・カップ挑戦に名乗りを上げ、こちらにはヤマハがバックに付き殆どナショナルチームとして1992,1996,2000と3回の挑戦を行うが予選通過にも至らず敗退した。山崎も好し!
昨夜電話してきたFさんはこのベンガルベイヨットクラブの流れを汲む人であった。ベンガルチームの若手のクルーであったようだ。
そして私はそれを知らなかったが武田陽信がベンガルチームのプレイイングディレクターを務めていたという。
私が書いた武田陽信や小林正和の記事が検索するとよく出るので私が彼らと親しかったと思い墓参を報告してきたのだ。この2人を記憶する人はもう少ない。
もって瞑すべし。
黒潮丸未だ世に在り。