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2016.09.29

「82才の日記」メイ・サートン

「82才の日記」(メイ・サートン)を読んでいる。
メイ・サートンについては6年前に記事を書いているので添付する
 
いま私がこの書を読むのは、自分が81才になって、82才の日記の書き方を学びたいと思ったからである。
メイは1993年から4年にかけての1年間この日記を続け、翌1995年83才で亡くなった。
及ばずといえ私もいささかでも自らの末期を整えたい。
なおメイ・サートンを初めて読む方には、この書ではなく「独り居の日記」「海辺の家」などをお勧めする。
 
これまで「黒潮丸通信」は何かトピックを見付けて記事を書いてきたが、これからは我が末期に至る日常の記録として書くことにしよう。
願わくばその当日に至るまでわが硯海の水の枯れざることを。
 

 
∞∞∞たまゆら-とんでん-双子ニレの家 2010/3/19∞∞∞∞∞∞∞

昨年3月群馬県渋川「静養ホームたまゆら」の老人の事故死、そして今月札幌「グループ・ホームみらい・とんでん」の老人の事故死で、私は「双子ニレの家」を思った。

メイ・サートンの小説「今かくあれども」の舞台となったナーシング・ホームである。

 


 

<私は狂気ではない。年をとっただけだ。・・・・

私は老人の強制収用所にいる。ひとが、親や身内をがらくたのように捨ててゆくごみ溜めにいる。

兄のジョンが私をここに連れてきたのは、2週間前のこと。もちろんはじめっから、兄と同居できないことはわかっていたが、心臓発作を起こしたあと、私は家を畳むほかなかった。・・・・>

 


 

生涯独身で高校の数学教師だったカーロは心臓発作で身体不自由になり、ナーシング・ホーム「双子ニレの家」に入居させられる。
ホームは看護婦あがりの40代の女性とその娘が運営している。ほかに殆ど認知症の10数名の老人が入居している。
ここでは彼女は異端である。インテリであるが故に異端である。
老人たちとはほとんど接点がない。運営者のハリエットがカーロを憎むのである。外部への手紙を握りつぶし、稀な訪問者も面会不能と追い返す。

 



カーロは次第に壊れてゆく。
せめて正気を保つために隠して日記を書く。
そしてタバコのライターの油を溜め込む。ホームを焼くために。
どこまでが正気で、どこまでが狂気で、どこまでが痴呆か。

 


 

~~~~~~
メイ・サートンがこの小説を書いたのは1973年頃という。この時代のアメリカの老人施設はこのようであったという。
現在は、どのようになっているか?
「たまゆら」や「みらい・とんでん」と異なるところあるのか?

 


 

~~~~~~
「たまゆら」や「みらい・とんでん」を報ずるマスコミの口調は設備の不備を咎め、法律の不備を追求し、運営者の怠慢を責める。
たしかにその告発がなければ世の中の改善はないであろう。
しかし私は「たまゆら」「とんでん」の現状が国力であり民度だと思うのだ。私はその国力の中で老いるしかない。

 


 

~~~~~~
メイ・サートン(1912-1995)はベルギーに生まれ、第1次世界大戦を避けて一家でアメリカに移住する。米国籍。父はハーバード大教授。

ヨーロッパに学び、女優を目指し、劇団を主宰し、そして作家・詩人となる。バージニア・ウルフ、ジュリアン・ハックスレーなどとの多彩な交友があり典型的な東部エスタブリッシュメントである。

 



私はたまたま「独り居の日記」「海辺の家」「夢見つつ深く植えよ」「私は不死鳥を見た」「総決算のとき」「今かくあれども」を読んだ。


2016.09.24

ヘアクリームのこと

どうも髪の毛がぼさぼさになって納まらない。
5-6年前から使っている整髪料をよくよく見たら「強力 寝癖直し ヘアウオーター」とあってメーカーは石鹸会社である。
 
これは整髪料ではないのかもしれないと考えて、「ルシド-ヘアクリーム」を買ってきた。
 
使用後の写真である。少しはましになったようだ。 2016/9/24撮影
 
整髪料についてはこんな事件があった。
 
~~~2005/10~~~~~~~~~

​2005/10/04撮影
 
これは何の写真であろうか?
なにやら瓶を顔の横に掲げている。
鏡の前で撮ったので文字が読めるように逆転してある。
「ビオレ」と読める。
1週間ほど前から頬のあたりがガサガサになって気になっていた。思いついてクリームを塗った。ヨット用の洗面袋から取り出して塗った。ところがさっぱり改善されない。
今朝何気なく「ビオレ」の内容を読んだらシャンプーではないか!これでは改善されない道理だ。
 
実は以前にも同じようなことをしている。
 
~~~~04年3月~~~~~~~~
前略
> 加齢により肌に水気が乏しくなり、冬場などがさがさの状を呈する。
> それで稀に(月に数回)セナクリームなるものを顔面に塗布する。保水作用があると いう。
>
> 今朝しげしげとそのクリームを見てみたら、なんとそれはヘアクリームではないか。
> ここしばらく、整髪料を顔面に塗布していたのであった。
>
> なんと云うべきや。
 
~~~~~~~~~~~~
 
人間はかくして老いてゆくのであるか。

2016.09.14

天草(てんぐさ)物語3-ニール号-完

実際にニール号の姿を見てYさんの幻想はますます燃え盛った。
彼の頭の中は<沈船→宝船→引揚げ→億万長者>の夢で一杯だったのだろう。
 


私の考えは違った。
・文化財扱いで引き揚げるには数十億も掛かるだろう。
・役所の許可、地元の同意、関係者の調整、大変なエネルギーが必要だ。
・実行委員会の頭には県知事くらい引っ張り出さないと、
・まず役所まわりだけだって膨大な時間と経費が掛かる。
・それで得るものは決して億万円の儲けではない。
・私はやらないよ。

Fさんも同じような考えだった。
 


Yさんは益々燃える。
町長、漁業組合長、青年部会長、仕事を休んで1人で飛び回るがどこも同調してくれない。
地元としてはこういう手合いは時々現れるので慣れているのかもしれない。
金主でもない風来坊など相手にしないのだろう。
 


ところがどういう伝手を頼ったのかYさんは遂にTVに食い付いた。日本TVが取材に来ることになった!
1989年1月日本TVの取材チームが来て潜り、ニール号を確認した。
勿論現場のリーダーはFさんである。
Yさんの執念の凱歌であった。





 

しかしここまでであった。
話は発展しなかった。

 


1989年5月2~6日、「ウィンデイホリデイ」号で現場に赴いた。


1989/05/03 妻良港外の写真である。中央赤ジャケットがYさん。右が私。
この悲壮なる顔を見よ。
 


こうしてニール号の夢は次第に凋んでいった。
Yさんの失意は甚だしく、遂に日本脱出に至る。
その話はまた別にしよう。   完
 

2016.09.13

天草(てんぐさ)物語2―ニール号

マイボートを伊東に置いていた当時、私の勤務地は丸の内帝劇ビルであった。
私はヨット遊びに社内の同僚や後輩を誘うことはなかった。彼らの出世に障ることを慮ったからである。
 
ヨット仲間はもっぱら当時主宰していた「PCオーシャンヨットクラブ」や舵誌の「仲間募集」欄で募った。
そんな中に稲取のFさんが居た。
彼の前職はプロの潜水夫だった。仕事の現場があまりに危険なので辞めたのだという。当時は稲取のホテルの支配人をしていた。
さらに聞けば彼は日比谷高校出身だという。奥さんは浅草生れ浅草育ちの江戸っ子だった。屈折した人生だとも云える。
彼の家を訪ねたことがあったが高台で眼下に白波の寄せる浜を見下ろす、海の男の理想の家であった。
その時中学生くらいの女の子が、「お父さんもお母さんも狡い。2人はすべてを知ってここに来たのに、私はここしか知らない。」と零した。
彼女は鋭い。今どうしているか。
彼は現在東伊豆町会議員として人並み以上の活躍をしている。いい友人を持った。
 
「ウィンデイホリデイ」号上で雑談をしている時、ふとFさんが<沈船を知っている>話になった。
潜水夫の仕事をしている時、南伊豆妻良港の出口で沈船を見付けたのだという。場所もきっちりと山立てをして記録してあるという。
 
この話に食い付き、夢中になったのがYさんである。沈船引揚げなんて夢ではないか!
実はこの沈船は無名の宝船ではなかった。嵐で沈んだフランス船ニール号として地元では知られた存在で、地元の海臧寺に招魂碑があるのだった。
1874年ウイーン万博に出展後、展示物や最新の織機などの宝物を積んでマルセーユを出帆したニール号は横浜に向かう途中石廊崎沖で嵐に遇い、妻良沖で難破したのだった。
 
 
Yさんはお構いなしである。
国会図書館に行き、国立公文書館に行きと、ニール号に関するあらゆる情報を集め始めた。
そしてとにかく現場に行きたいと言い出した。
 
ここでちょっとYさんの話をしよう。Yさんは舵誌の募集記事をみてやって来た。
ある日曜日の朝、約束の時間より1時間も早く来て伊東漁港の堤防で待っていた。あのちょっとシャイで飄々とした姿を今も忘れられない。
彼が乗ってきたのはアマゾンとかいう1500CCのバイクだった。ヨット経験無しのバイク乗りだった。
そのバイクで年に一度は北海道一周に出る。ある年大学生の息子と一緒に出掛けたが息子はどうしても従いてゆけず、途中でパーティを解いたという。
彼は都内のタクシーの運転手で、当時Gキャブに居たがどこへ行ってもその営業所でトップの稼ぎ上げるという。勘がいいのだ。
ヨットのことも実に注意深く我々の動きを観察し、2度と聞くことはなかった。私が間違ったやり方をしていると間違ったまま覚えられ、赤面したものだ。
私は大学でも出光でも、国会図書館や公文書館に自分の調べものに行った人を聞いたことが無い。
 
 
彼の切迫衝動は抑え難く、88年9月遂に現地へ行って潜ることになった。
この行動のリーダーはFさんである。「ウィンデイホリデイ」のクルー4名で出掛けた。私はこの時は参加していない。
Fさんは思慮深く、現地の宿に泊まり、現地の漁船をチャーターして現場に向かった。いずれ地元の協力を必要とすると考えたのであろう。
 
そして見付けた。
Fさんの見立て通り、水深35メーターの海底に殆ど砂に埋もれてそれはあった。
 
Fさんと海底の写真
Fさんのスケッチ  海底のニール号
 
(続く)
 

天草(てんぐさ)物語1―初島

今日(9/8)は東伊豆町の町議会傍聴に行った。わが旧友F議員が質問に立つことを知ったからである。
質問のテーマは<天草てんぐさ問題>であった。
私がなぜ天草に関心を持つのか、F議員といかなる関係か、語れば長い長い物語である。
取りあえず次の3点に分けて話そう。
1.本日の質問要旨
2.初島
3.ニール号
 
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東伊豆町役場前の金目鯛と江戸城築城石
 
~~~1.質問要旨~~~~~~~~~
伊豆半島の東海岸はところてんの原料となる天草の産地である。
品質の良いことで珍重され、各漁港はそれぞれに厳しい管理で資源を守ってきた。
例えば採取は素潜りに限定し、海女には鑑札が渡されて一般の採取は禁止されてきた。
しかし新規に海女の鑑札を受ける者がなく、遂に今年最後の80才の海女が廃業して1人も居なくなった。
 
この事態を見越して東伊豆町ではアクアラングによる採取を認める特例を定めた。
ところがこれまでの規制があまりに厳しかったため岸に流れ着いた天草を拾ってもいけないという風潮になり、天草採りが地場産業でなくなっている。
せっかくアクアラングを認めても、町外の若者が来て採ろうにも採れないではないか。
地域振興、地場産業発展の観点からすれば、もっと検討の余地がある。
これがF議員の意見であった。
 
~~~~~~~~~~~~
熱海と伊東からほぼ等距離の沖に初島がある。
 
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島の北側の港が主港で連絡船が発着する。
風向きが悪い時のために西側に避難港がある。桟橋とスロープのみで陸上施設など何もない。
いつの頃かここに「フィッシャリーナ」が出来た。そのことは後に書く。
私の忘れ難い思い出はまだ避難港だけだった時代の話である。
 
~~~初島の天草~~~~~~~~~
​1985年頃、私はマイボートを伊東に置いていた。漁港の一角の防波堤にプレジャーヨット&ボートが10数隻、肩身狭く勝手係留していた。
今よりも遥かにマリーナ事情が厳しかった時代である。
私の舟遊びの目的は銚子から熊野灘までのすべての漁港に入港することだった。
勿論伊豆半島、駿河湾、三河湾、五カ所湾では実現している。
 
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​88年5月 初島避難港にて
 
初島は伊東から5マイル=1時間でお気に入りの遊び場だった。
連絡船発着の港の裏側に、風が悪い場合の避難港があった。ケーソンの岸壁が1本。常駐する漁船もない。
着けて、泳いで、買ってきたカツオを捌いて、食べて、飲んで、寝る。他の艇と一緒になることは滅多にない。
自分たちだけの隠し砦だった。
 
ある時、珍しく人気(ひとけ)があった。
岸の網干し場の横に漁師小屋があったのだが、そこに人がいる。女性ばかりだ。7-8人。子供も数人いるようだ。
コンクリートのスロープ一杯に赤い天草が干されている。
夕餉の支度か白く細い煙が上がっている。コンロは七輪か。まさに浦の苫屋の風景である。30年も50年もタイムスリップした感覚だった。
近寄ってみたら海女だった。飛び交う言葉は朝鮮語。韓国の海女だった。
後で聞くと宇佐美の事業家が天草の権利を落札し、韓国から海女を呼び寄せて収穫していたのだという。
韓国が奇跡の成長を遂げる直前の時代だ。
 
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~~~初島リゾート施設とフィッシャリーナ~~~~~~~~~​
初島は田んぼも無く貧しい島である。長らく島内の戸数を限定し、跡取り以外は島を出ることを厳しく守ってきた。
だから都会の風俗が入ることが少なかった。
80年代の終わり頃、島の人に信頼の厚い某氏が島の振興にリゾート計画を立ち上げた。
それまで頑なに外部資本の入島を拒んでいた島民も、その人ならと受入れた。
東京電力やソニーの名前を看板に押し立てたその計画は、立派なホテルを作り上げた。
しかし完成を前にしてバブルは崩壊し、1口5000万円の会員権は売れず、倒産し?、結局現在はExivというチェーンになっている。
島の人の心の痛みは大きかろう。
 
さらに遅れて避難港の横にフィッシャリーナが建設された。どこからどういう政治力学が働いたものか。国の資金が60億も投入されたという。そんなに掛る筈がない。
すべて自前の金で三河みとマリーナを作った私は大いに憤慨したものだ。
いま初島フィッシャリーナを利用する観光客はいない。
 
全国津津浦々で繰り返されたこういう無駄な投資が日本を貧乏にした。
私は島の関係者ではないし島を研究したこともない。ここに書いたのは自分の体験と新聞記事と巷の噂である。
 
080710lm35hatusimaatami_031
88年7月 初島でLM35のサーベイ  黒潮丸
 

2016.09.07

9月の予定

9月に入り、朝夕はやはり凌ぎやすい。
 
~~~9月某日~~~~~~~~~
9月の某日、珍しく老人の予定が3つも重なった。
・出光のOB会
・ボランテイアをしているライブラリーの懇親会
・ガーデニング仲間の箱根ツアー
 
箱根を選択した。
 
~~~2島返還?~~~~~~~~~
岸田外務大臣が9月3日宮崎県日南市の小村寿太郎の墓参りに行ったとのニュースを見た。
私は即座に、安倍と岸田は北方領土問題を2島返還で決着させる腹を決めたと解釈した。
 
小村元外相は日露戦争後の講和会議で一銭の賠償金もとれない条約を締結し、激高した国民は帰国した小村を日比谷公園焼き打ちで迎えた。政府は戒厳令を発令し、解除は2ヶ月後であった。
岸田は2島返還に反発する国民の感情を己が身に引き受ける覚悟を決めたのだろう。
 
~~~ISとイスラム教~~~~~~~~~
「世界史としての日本史」(半藤一利、出口治明)を読んだ。
特に感銘を受けたのは次の2点である。
 
・ISとイスラム教を殊更に絡めてはいけない。ISはテロ集団であるが、イスラム教徒全部をテロリストにしてはいけない。
・「コストを試算-日米同盟解体」(毎日新聞社)によれば、日米同盟をやめて中国に対抗できるだけの兵力を持つと試算すると24兆円/年かかる。戦費ではない、維持費である。
日本の税収は60兆円/年である。
 

景観デザイン―東京港

築地と豊洲の位置を見てみよう。

 
狭い東京港の中で、魚市場=東京卸売り市場が移転するのにもうこれ以上良い立地はあり得ないと思う。
あると言うなら教えて欲しい。
 
それにしてもわが出光江東油槽所はテニスの森になっている。もって瞑すべし。
 
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​豊洲市場完成イメージ図である。もうこのほとんどが完成している。ゆりかもめの「市場前駅」はずっと前から出来ている。
向こう側が晴海ふ頭、東京港の客船桟橋である。
手前が有明テニスの森、われら出光人の汗が染みている。
 
~~~~~~~~~~~~
 
2004年3月に「景観デザイン-東京港」の一文を書いていたのでご披露する。
 
竹芝から見る東京港はすっかり変わっていました。
私がその辺りの海を毎週のように乗り回していたのは15年以上前です。その頃13号地には1棟のビルもなく、砂漠でした。その頃の東京港内のチャートは真っ白でした。
竹芝側も戦後のままでひどいものでした。これが東京の海の玄関か、といつも憤慨してSIGに書いたりしていたものです。
しかし一変していました。美しいかどうか判りませんが、美しそうなビルや橋がありました。竹芝にも昔の竹芝桟橋・日の出桟橋には考えられないようなマスト広場などが出来ていました。いつも乗り着けては昼飯を作って食べた浜離宮も、昔よりきれいに見えました。
西宮・尼崎あたりや大阪北港南港よりよほど良くなりつつあるように思いました。
あの砂漠や利権ばかりの倉庫群からこんな街並みが出来ることを鈴木俊一知事は予見していたのだろうか?
こんなランドスケープデザインを誰かが具体的に描いたのだろうか
考えてみましたが、夢の島から晴海、品川に到るこれほどの大きなスペースのグランドデザインを描くほどのデザイナーはどうしても思い浮かびません。
晴海のターミナルやベイブリッジや品川駅や汐サイトや、個々施設ののデザイナーはいるでしょうが、このグランドデザインは誰が描いたのか?
これがお役所仕事というものの恐ろしさのようです。
http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2004/03/post_5.html
 
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 OfficePCC: usedboat.jp/
森下一義

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