« かたやま    | Main | 伊豆オープンガーデンの冊子作り »

2015.02.28

片山豊氏の訃報

2月19日、元日産の片山豊氏の訃報が伝えられた。1909年生まれで105才だったという。
 
私は長年潤滑油や燃料の納入業者として日産の各工場に出入りしていた。出光はトヨタよりも日産への納入シェアが高く、大事な取引先であった。
そんな時期、1980―95年頃か、「日産には片山という凄い人がいた」との噂話を聞いた。日産の社員からではない。日産ディーラーや納入業者仲間からである。
どんなに凄いか。<フェアレデイZを作った><東京モーターショーを始めた><アメリカで売りまくった><日産はあの人を追いやって凋落した>・・・。
 
私より26年も年長の人であり時代が違うし、まして他社のことだから詳しいことは何も判らないが、あまりに遣り手過ぎて社内で疎まれたらしい。
片山はアメリカでDATSUNを売りまくり、1975年米国内で輸入車販売1位となった。
日産本社は片山を意識してかどうか世界ブランドをNISSANに統一した。しかし片山は米国ではDATSUNの方が語感がいいとしてDATSUNで売り続け、Zも「フェアレデイはスポーツカーの名前ではない」として「DATSUN240Z」で大ヒットさせた。そもそも片山のコンセプトで作り上げた車であった。
 
 
日本に呼び戻した片山を日産本社は役員待遇さえ与えず広報関係の子会社に送った。
片山は1977年、定年退社する。
日産の社史に片山の名前はおろか「Z」の写真すら無いという。
 
かくほど片山を怖れ、憎み、迫害した日産本社とは何か。具体的には石原俊社長であった。
当時日産社内では片山の名を口にすることさえ憚られたという。
しかし一方で石原は労組の天皇塩路一郎と激烈な戦いを戦っていたのであった。
 
かかる不毛な社内抗争を続けた日産は当然の結果として凋落する。
1999年、日産はルノーからカルロス・ゴーン社長を迎える。
同年、ゴーンは片山を日産本社ビルに招き「Z」の再開発を約束した。
なお片山は1998年、退社して22年経って米自動車殿堂入りしている。それほどZカーのインパクトは大きかった。
既に川又も石原も塩路もこの世に亡く、そして片山豊が逝った。
 
<さまざまなこと思い出す桜かな>  芭蕉
 
追記
マリーナ建設時代、日産で「新門司マリーナ」「仁尾マリーナ」を作っていて面識のあった片山泰夫氏は片山豊氏の息と聞いた。
 

« かたやま    | Main | 伊豆オープンガーデンの冊子作り »

Comments

The comments to this entry are closed.

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 片山豊氏の訃報:

« かたやま    | Main | 伊豆オープンガーデンの冊子作り »