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2013.08.12

ゴロフクで思い出したこと

母がどういう時に<ゴロフク>の語を使ったのかを思い出した。
 
少し長くなるが10年前に書いた記録を再録させて頂く。
 
~~~敗戦時の我が家~~~~~~~~~
昭和20年8月9日、ソ連軍は突如満州への侵攻を開始した。
兵員170万人、航空機5千機、戦車5千台の大兵力だったという
戦後処理で日本への分け前確保を狙ったスターリンが急ぎに急いだ攻撃であり、ヒロシマ原爆投下の3日後のことであった。
この攻撃部隊が城津に到達したが8月23日であった。

日本高周波鋼業城津工場は鉄鉱石から製鋼、特殊鋼製品までの一貫製鉄工場で、日本人従業員2600人朝鮮人従業員4500人を擁する大軍需工場であった。家族を含め在留日本人は4300人を数えた。
わが家はその一員であった。

ソ連軍侵攻および敗戦を迎えて、城津の日本人はほとんんど為すところなかった。情報と指示が途絶えたのである。
そしてソ連軍の第1線部隊の進駐でたちまち厳しい現実に曝された。彼らは戦闘部隊であり、囚人で編成された部隊であると噂された
砂塵を捲いて進入する戦車部隊。沿道に旗を振って迎える朝鮮民衆。鳴り響く銃声。
兵隊は女を求めて日夜民家のドアを叩き、略奪は日常茶飯事であった。兵士たちは腕に10個もの腕時計を付けていた。
父は拳銃で殴られて歯を折り、帰国まで直す機会はなかった。朝鮮人の暴動も始まった。

工場の主だった幹部は拘束された。ある者はソ連に送られ、結局工場長は殺された。技師長の帰国は10数年後となる。
我々にとって幸いだったのはソ連軍が軍需工場に価値を見出したことである。はじめ彼らは重要な機械を撤去して本国に持ち去った。しかし20年12月に一部工場の操業を開始する。 そしてこの仕事を旧日本人従業員に任せた。
トップを失って残った城津工場幹部は残留する従業員を糾合して操業再開に協力した。そして邦人支援や祖国引揚げのための「日本人世話会」を作った。
朝鮮人従業員への預り金返還や退職金支払い等の残務処理を行ったまたソ連軍と交渉して日本人従業員の工場社宅への居住の保証を得した。
父森下梅一は当時34歳、経理課予算係長として幹部の一員であった。たまたまロシヤ語ができた。

この社宅居住の確保こそ我々の最大の幸運であったと思う。
敗戦により外地の日本行政組織は消滅し、満州および朝鮮の日本人は一切の国家の庇護を失った。そしてまず住宅を奪われた。
満州から、そして朝鮮国境から、家を失った日本人が続々と城津を通って南下していった。
「連日連夜来る日も来る日も真夏の炎天下を、敗戦の日本民族が大河となって流れていった。老幼女子からなるこのみじめなる大河の流れは、日本の歴史上いまだかってなき悲惨を極めた風景であった道々略奪暴行を受け、へとへとに疲れ果てては野宿し、歩けるぎりぎりまでを歩きつくして南朝鮮を目指していった。」と記録 (こうしゅうは-91北朝鮮引揚げ特集号)は記す。
藤原てい(「国家の品格」藤原正彦の母)の「流れる星は生きている」にその姿が詳しい 。私は目の当たりにそれを視た。

彼ら難民にとって高周波社宅に住み続ける我々は天国の住民の如くに見えただろう。

4300人の在留日本人がそのまま全員残ったわけではない。ソ連軍進駐前に逃げた者もいた。その頃はまだ南朝鮮への汽車が動いていた。歩いて逃げた者もいた。しかし大方は結束を保って帰国の時期を待った のであった。一つにはソ連軍が工場再開のために日本人の移動を禁じたからでもあった。

~~~生活~~~~~~~~~
生活は<売り食い>であった。
売れる物を売るしか生活の手段はなかった。敗戦国の製鉄工場の従業員にほかに何をする知恵も技術も環境も時間もなかった。
売るには、闇市に持って行くか、鮮人が買い取りに来るのであった。

売る物がない者は食えなかった。
そのために養成工がまず飢えた。養成工とは15、6才の青年を内地から呼び寄せ、寄宿舎に入れて一人前の工員に育成する制度である。若い彼らには売る家財・衣類が無かった。
早い時期に歩いて脱出した者もいたがが残る者も多かった。目のあたりに見る南下する難民の悲惨さが、歩いての脱出をためらわせた。
わが家でも2人の養成工を引き取った。

ソ連軍による日本人移動禁止命令のみあって、現前の生活手段も先行きの見通しも何も与えられないままの不安の時期が続いた。
しかし工場の製品および機械設備の搬出が始まり、12月になって工場の操業が一部再開された。日本人はその使役に駆り出され、1200名が働き、それらの労働に対して大豆・高粱の配給と給与が支給され るようになった。若干の秩序が戻った。
日本人世話会は配給の食糧および給与をプールして皆で配分した。出征留守家族や養成工にも配分された。
正月を迎えるある日、母節子が「ごめんなさいね。これしかあげられないのよ。」と言って闇市で買った飴玉を2粒渡してくれたことを鮮明に覚えている。どうして親が子供に謝るのか不思議に思った。ほかに正月の料理は何もなかった。
飴玉とて他の同居家族の眼を憚るものであっただろう。

栄養失調者は続出し幼児の死亡が増加した。脱出者の空家も増えた。出征遺家族、養成工、養成看護婦など生活力なき者の困窮が深まるなか、社宅集約が実行された。
我が家は、我が家族(父、母、一義10歳、一乗7歳、迪子4歳、一期2歳)、母の妹およびその夫(高周波社員)、S出征社員の留守家族(妻、幼児、乳児)、養成工2名の13人の所帯となった。

~~~ゴロフク~~~~~~~~~
<ゴロフク>の語を聞いたのはこの時である。
鮮人が裏口に来て「何かないか」という。出すものは衣類しかないから、着物とかコートを出して食物と替える。
そんな時母が言ったのだ。「これは<ゴロフク>だからね。沢山出しなさいよ。」
鮮人に<ゴロフク>が判るわけはない。しかし寒い土地で舶来の毛織物はそれなりの価値があったのだろう
10才の少年の記憶に残った。
 
 
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森下一義

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