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2013.08.30

<平成源氏香占い> お叱り

このところ「平成源氏香占い」のPCサイトについて厳しいご批判を頂いています。
 
~~~占いゲーム~~~~~~~~~
私は「平成源氏香占い」を<占いゲーム>と位置付けているのですが、「ゲームではなく占いそのものではないか。」とのご指摘を受けました。
この方は占いに純化して欲しいようです。
 
私が<占いゲーム>としたのは次の3つの理由からです。
1.商標登録が「玩具・ゲーム」のくくりだったこと。
2.私自身があまり占いに知識・経験・関心が無いこと。
3.そもそも「平成源氏香占い」開発のミッションが香道・源氏香図・源氏物語の啓蒙・普及にあり、占いグッズ販売が目的ではなかったこと。
 
しかしいよいよ物販サイトとしてやっていくとなると、<占い>なのか<占いゲーム>なのか厳しく問われるのかもしれません。
 
~~~香りのコンタミ~~~~~~~~~
「5種類の香袋の香りが混ざらないか?」のご指摘がありました。
 
香りのコンタミと持続性が企画当初からの最大の問題でした。
結局線香の使用に落ち着いたのですが、香袋の製造は箸袋製造業者に依存せざるを得ず、形状・紙質など我儘が言えません。
裏面のマークで逃げています。
 
~~~記録紙~~~~~~~~~
「毎度書いて消すボードより、記録に残せるノートがいい。」とのご意見がありました。
 
なるほど。本当に占いと考える人にはそうなんだ。
 
~~~文字が小さい~~~~~~~~~
「和文、英文を載せるので字と源氏香図が小さくなっている。」
 
頭の痛い問題です。
 
~~~時間が掛かる~~~~~~~~~
「1人で占うにしても結構時間が掛かりそう。」
 
本当の源氏香遊びに比べたらミューとイプシロン以上の差があるのですが。
 
~~~サイトが楽しくない~~~~~~~~~
「物販サイトはその商品を欲しいと思った人が訪ねてくる。だから商品の情報と、その商品にまつわる楽しい話を載せるべきだ。ところがこのサイトは苦労話、愚痴話ばかりで全然楽しくない。」
 
ご説ご尤もです。
 
どれも有難く承るばかりです。
 
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香りの径本舗 森下一義

クラウドソーシングとワンコインサービス

クラウドソーシングについては6月に<a href="http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2013/06/post-3f30.html">ここ</a>に書いた。
 
要するにいろんな作業をネット上で気軽に頼めるサービスである。
私もこのところ「平成源氏香占い」の開発で大いに利用している。
5200円で源氏香図を全部トレースし直してもらった。
7000円で香袋のデザインをし展開図を書いてもらった。
10000円で新しくWordPressで作った源氏香サイトの表紙を手直ししてもらった。これなんか自分で今さらマニュアルを読むのは辛いし、誰かに頼むにしても最低3万円と思っていたのが1万円のオファーがあって、満足する出来栄えだった。
 
安いと思う。
技術者、デザイナーの報酬がどんどん安くなる、という論調もあったが、必ずしもそれだけでないらしい。
失職したIT技術者が東京では暮らせず郷里の宮崎に帰った。そしてクラウドソーシングで仕事を受けているいちに月に2,30万円稼げるようになり、これでやっていけると見極めてもっと生活費の安い奄美に移る、との話があった。
ほかにクラウドソーシングで稼ぎながらミャンマー、フィリッピンで暮らすスタイルも増えているらしい。
手軽さと安さが新しく仕事を増やしている。
 
~~~ワンコイン・サービス~~~~~~~~~
クラウドソーシングが安いと思っていたら、なんと500円のサービスがあった!
”ココナラ”coconara.com/ というサービスである。
 
たしかにクラウドソーシングに比べてサービスのレベルは低いが、面白いサービスがある。
Twitterのフォロワーを増やすとか、Facebookの<いいね>を幾つ保証するとか・・・。
 
私は「平成源氏香占い」の感想を求めたら多くの貴重な意見を頂いた。
 
人生、面白いね。
 
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香りの径本舗 森下一義

<平成源氏香占い> 構成部品

わがオフィス(パソコン部屋>の引っ越しがあったり、八重の桜→武士の娘→ゴロフクの思い出→闇船ストーリー→学閥の話など、思い出話が続いて<平成源氏香占い>が疎かになっていました。
 
現在、各構成部品の設計仕上げの段階です。
イメージだけだったものを、具体的に数字を入れた図面に仕上げなければなりません。クラウドソーシングのLancersなどを利用しています。
 
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「平成源氏香占い」は次の部品から構成されます。
 
1.香袋  5種5包 計25包
  耐水奉書紙の袋で線香が入っています。上蓋を開けて香りを聞きます。5種の線香が各5包、計25包あります。
2.香袋の袋
  25包をまとめて入れて置く錦地の巾着袋です。
3.記録紙
  嗅いだ香りを源氏香図に書きとめる台紙です。消えるペンで書き、消して反復使用します。
4.消えるペン
  消しゴムで消えるペンです。
5.香袋ホルダー
  選んだ5種の香袋を一時的にキープするホルダー。
6.源氏香之図一覧表
  52種の源氏香図が一覧表記されています。
7.冊子「平成源氏香占いー吉凶診断」
  源氏各帖のあらすじ、その英文、源氏香図、恋愛・仕事・生命の運勢が記されています。
8.「開運・厄除香」香皿付き
  実際にお線香を焚いて気持ちを静めましょう。
9.ブック型収納ケース
  デスクや本棚に収納できます。
 
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3.の記録紙
これは自分で描きました。
線を引くにはドローソフトが必要ですが、私は7万円もする「イラストレーター」は持っていません。
思い出して6.7年前に2千円で購入したソフトを使用中のパソコンにインストールしました。
使い方は完忘なので一からマニュアルの読み直しです。
そしてやっと描いたのが下の図です。
これをオンデマンドの印刷屋に頼めば多分出来上がります。
 
しかし大汗をかきました。
 
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香りの径本舗 森下一義

2013.08.24

ゴロフクで思い出したこと5-闇船の写真

私が思い出話を書いている最中の8/12に、NHKが「知られざる脱出劇-北朝鮮引揚げの真実」なる特番を放映していたことをM兄からのメールで知った。
早速NHKオンデマンドで観た。
 
どうやらこの番組のスタンスは、「日本政府は北朝鮮からの邦人引揚げに具体策を講じなかった。ソ連軍も帰還援助どころかむしろ38度線の警備を厳重にしていたこのため20数万人の在北鮮邦人は自力での帰還を図らざるを得ず、道中は困難・悲惨を極め、3万人の死者を出した。」ということらしい。
つまり「日本政府は北朝鮮の邦人引揚げに手抜きした。」というのである。
 
私は子供だったせいか、自分たちの引揚げに国が手伝ってくれるなどとは夢にも思わなかった。自力で帰るのが当たり前と思っていた。
敗戦後の無秩序の中で、国を当てにする気持ちは早々に失っていた。
そしてこの気分は私の前半生を強く支配した。
私が左翼にも右翼にも染まらなかったのは、どちらも当てにならないことを身に染みて知っていたからだろう。
 
 
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NHKがどうやって調達した船の写真か知らないが、我々の乗った闇船によく雰囲気は似ている。こんな帆船であった。
後甲板はこれほど高くなく、長さはもう少し短く、ずんぐりした形であった。(帆柱のない方が後甲板である)
帆は木綿で重たく、低く、船全体がもっと薄汚れていた。
 
 
~~~妹と弟~~~~~~~~~
下の弟妹はどうした?との質問も頂いた。
 
妹は青山学院、末弟は東京工大に進んだ。
父母は嬉しかったであろう。
末弟の場合、緑ヶ丘小学校、目黒11中、都立大付属高、東京工大と自宅から半径1kmで全部済ませた。
 
 
~~~ついでに~~~~~~~~~
ついでに言えば(ついでに言ったのでは叱られるな)、私の妻は青山学院、次弟の妻も青山学院である。
 
はっはっは。学閥であるな。

2013.08.15

ゴロフクで思い出したこと-4

~~~日本高周波-城津の闇船物語~~~~~~~~~
敗戦後日本高周波鋼業城津工場の残留従業員の組織「日本人世話人会」が運航した闇船について、ここ数回で書いた以上のことを私は知らない。
今さら聞こうにも父はもう居ない。
 
いずれにしろ、どこの誰の助けも借りない自主運航であった。
またある意味、不法運航であった。
闇船であった。
そして2000人以上の仲間を南朝鮮に運んだ。
 
~~~夏目雅子の義父の物語~~~~~~~~~
伊集院静に憧れてやまない叔父がいた。母の弟である。戦時中、剣道全国大会で御前試合に出たほどの俊才であった。
朝鮮戦争が勃発し、若い彼は祖国独立の理想に燃えて日本から戦いに参加した。北朝鮮軍に参加した。
戦いは京城から釜山、反転して平壌から鴨緑江、そしてまた平壌、開城と半島全土を揺るがし舐め尽くし、そこに大きな悲劇を残した。
停戦後叔父は実家に潜んだがそこは南鮮側であり、赤の残党狩りが吹き荒れていた。彼は庭の鶏小屋の地下に穴を掘って隠れた。見付かれば棍棒で撲殺される。

窮状を伝え聞いた姉(伊集院の母)は「何とかならないか」と夫(伊集院の父)に泣き付く。
父は山口県防府あたりで廻船業を営んでいた。彼は持ち船の1隻を高速船に仕立てて部下と共にミョンピョン島の近くに潜航し、暗夜1人上陸する。多額の米ドルとダイヤモンドを身に付けて。
そして義弟を見つけ出して救出する。

これを英雄と云わずして誰を英雄とするか。
しかし伊集院静はその著「お父やんとオジさん」で遂に父の名前を出さない。
やはり非合法の側面があまりに多いからであろうか。

~~~辛坊治郎のヨット遭難物語~~~~~~~~~
辛坊治郎と盲人セーラーの乗るヨットがクジラと衝突して沈没し、海自の飛行艇US-2に救助された。
この事件について世間の論調は一斉に辛坊非難にまわった。

クジラとの衝突はあり得ることだし、海自の救助を受けるのは格別非難されるべきことではない。
世間が非難にまわったのはこの航海自体にまやかしを感じたからだろう。
マスコミお抱えの名前を売らんがための航海だった。
辛坊本人の覚悟が伝わらなかった。

~~~闇船の世界~~~~~~~~~
船で海に出るとはどこかで闇に繋がる営為である。
申請をして補助金をもらってやる仕事ではない。

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森下一義 a sailor and a gardener

2013.08.14

ゴロフクで思い出したこと-3

~~~~闇舟の航海~~~~~~~~
38度線を越えるまで航海3日の予定であった。
船は沿岸の北朝鮮漁船や警備艇を避けて遠く沖出しした。深く、蒼い海だった。エンジンのない帆掛け舟は静かに静かに進んだ。
一義はひたすら海の底を眺め続けた。夜はデッキの上で星を見上げた。デッキの上は夜露が降りる。しかし船内に兄弟2人の寝場所はもうなかった。
すでに乗り込んだ最初から、居場所の確保や食事の配給において親のいない子の立場は弱いのであった。
 
3日目は嵐になった。
嵐の中での大人たちの狂態を、一義はむしろ<いい気味だ>と思って見ていた。結局目的の港に入るまでに7日を要した。
老朽の木造漁船の上で、トイレは板をまたいで直接海に落とすものであった。女子供、8歳の弟がどのようにしたか、覚えがない。
40名分の炊飯の設備はなかった。なにより水が切れてきた。飢えと不安が船の上を覆った。
 
最後の日、北朝鮮警備艇の銃撃を受けた。拿捕が目的だったのか、海賊目的だったのか、判らない。ただ銃口の閃光だけが強烈な記憶である。
それをどうして脱したのか記憶がない。ちょうど米軍のボートが通りかかって曳航してくれたのだったか。
 
入った港は註文津(ちゅうもんしん)である。
この時期、南鮮における日本人引揚げの拠点として米軍のキャンプがあった。ここから日本内地向けの引揚船が出航した。
このキャンプに兄弟は10日ほど滞在した。この頃まではまだ2人の養成工は一緒だった。
そして内地向けの引揚船に乗った。リバテイ船と呼ばれる戦時型貨物輸送船であった。
着いた港が佐世保であった。
内地の山の緑が眼に染みた。
 
~~~~旅の残り・祖父母のもとへ~~~~~~~~
目的地は祖父母の住む愛知県渥美郡福江町(現渥美町→田原市)小中山であった。
守役の養成工はそれぞれ故郷近くで降り、わが兄弟2人は進行方向に進む人に託された。思えば彼らも18、9才の未成年であった。
託された人が終点まで送ってくれたわけではない。次々とリレーされた。名古屋駅やどこかの農家に数日留め置かれたこともあった。
多くの人のお世話になったが、多くの危険を踏んでいたようにも思う。佐世保から2週間以上を要している。浮浪児との境界線にあった。
 
最後に託された人は福江のバス停まで我々を届け、祖父に電話をして去った。
祖父母は吃驚仰天したであろう。孫が2人、いきなり福江に居るというのだ。祖父は4キロの道を走ってきてくれた。まだ車のない時代であった。
あのバス停で待った時間の記憶は深い。
 
21年11月、わが兄弟は福江町立中山小学校の5年生と2年生に復学した。1年3ヶ月の学業ブランクであった。幸い学年の遅れはなかった。
一義は全身に吹き出物が生じ、中学1年の2学期を結核性肺浸潤で休学した。欠食と栄養不良の結果であろう。
こうして私の義務教育には2年の欠落がある。自分に偏頗なところがあることを自覚している。
 
父母と妹、末弟は1年後に帰還した。
豊橋の駅頭で再会するまで、親と子は互いの安否を知らなかった。
~~~~小中山漁港~~~~~~~~
小中山は渥美半島伊良湖岬をちょっと三河湾に入った半農半漁の小村である。
兄弟はすぐに半農半漁の生活に入った。麦刈り、田の草取りの辛さが身にしみた。
稲束を満載して兄が曳き弟が押すリアカーを坂道で制御出来ず、養魚池に飛び込んだこともあった。
この時期、物資の不足から日本全体が本卦がえりしたというか、機械や動力のない時代に戻っていた。すべてが原始的だった。例えば脱穀も精米も足踏み式でやっていた。
 
春には西の浜にコウナゴが押し寄せた。それを地引網でとり、浜で大釜で煮て、筵に干して煮干にするのである。村中総出の作業であった。
コウナゴが寄せる場所には筋があり、何度網を入れてもまた同じ場所に寄せてくるのである。だからその筋に網を入れようと、何統もの網船が順番を待って並ぶ。後ろから押されるから この並ぶことを<オサレ>という。
網船は勇ましく櫓で漕ぐのであった。4丁櫓だったか、今から思えば信じられないことだ。沖に出る外洋漁船はさすがに動力船だった。
コウナゴが寄せる日、半鐘が鳴って学校は臨時休講になった。地引網を曳くのに中学生には半日当が出るのに6年生には出ないのが悔しかった。
 
海苔の収穫、加工も1人前に手伝った。海中に入ってノリソダから海苔をハサミで切り取り、裁断してタコに干す。真冬の辛い作業だ。今はこの全てが機械化されている。
小中山の海苔は真っ黒い海苔で、いい値段になった。町の人がそんなにも高いお金を払うことが不思議に思われた。
 
祖父はもう隠居の身分で、手漕ぎの漁船で小漁師をやっていた。三枚網という刺し網の一種を仕掛けて待つのである。その櫓を兄が漕ぎ、弟は網を手伝った。
力いっぱい櫓を押して身を乗り出すと、爪先を残して全身が海の上だった。田舎では<櫓櫂(ろかい)3年、竿8年>という。櫓よりも竿を操る方が難しい。
 
結局小中山の生活は1年10ヶ月で豊橋市に移った。
闇舟体験と小中山体験で海は一義の身体に染み込んだ。
これが私のヨット遊びの原点である。
 
私は豊橋東高校を経て一橋大学に進んだ。この頃一家は東京に転居した。
弟も同じ一橋大学に入り、ボート部の代表幹事を務め、新日鉄に入社した。
なお末弟は東京工大であった。
 
 
追記
<森下が引揚者とは知らなかった>とよく言われた。
引揚者に対する差別、蔑視があるのを感じて、自分から言うことはなかった。
 
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森下一義

ゴロフクで思い出したこと-2

~~~~闇舟~~~~~~~~
あたりに人気(ひとけ)のない工場内の桟橋に異様な船が着いている。黙々と人が集まる。
乗り込んだのは日本人30数名。船頭4名。
それぞれにリュックサックを背負い、手に持てるだけの荷物を下げている。
場所は北朝鮮城津の日本高周波鋼業内の波止場だ。
時は昭和21年9月。
見送る者も送られる者も皆声をひそめあたりをはばかる。
乗り込んだ中に2人の兄弟がいた。兄森下一義11歳、弟森下一乗8歳。
弟一乗が出航前のわづかな時間にちょこちょこと出て行き、手のひら一杯の野の花を摘んできて「これをノンノさんに上げて」と母親に渡した。
その心根の優しさと、もうこれで生きて会えないかもしれないとの思いで泣いてしまったと、母節子はいまだにこの情景を思い出して涙ぐむのである。
 
その船は<闇舟>と呼ばれた。
敗戦後の北朝鮮にどのような秩序があったのか今の一義に知る由もないが、その船はいろんな意味で非合法だったから<闇舟>と呼ばれた。
船は木造船である。帆掛け舟である。エンジンはない。
日本高周波鋼業城津工場に残留していた日本人が金を出しあって購入した南への脱出船である。許可証も旅券もない。難民船である。
<闇舟>としか言いようがない。
兄弟は父母と別れ、2人だけでこの船に乗せられたのだった。
~~~~闇船の由来~~~~~~~~
21年3月、ソ連軍は城津工場維持のため約200名の「残留者」名簿を発表した。かくして日本人は「残留者」と「帰国者」に分けられた。父梅一は残留者に指名された。
しかしソ連軍が行ったのは残留者の指名のみであり帰国希望者に日本帰国の手段を用意する意思はなかった。日本人世話会は帰国の方策を検討することになる。
在留邦人の中には出征兵士の家族も多かった。乳幼児もいる。世話会は歩いての北鮮脱出は不可能と結論した。そして選んだのが海路による脱出であった。
 
世話会は漁船(帆船)を3隻買い取り、工員中の操船経験者を船頭として南朝鮮への往復航海を運航した。21年9月までに残留者を除くほぼ全員の輸送を完遂したという。
船員は何度も生命の危険を冒した。朝鮮引揚史上に残る偉業だと言われる。
あの混乱の中、世話会幹部のある者は京城、東京との往復を果たした。日本まで行ってそしてまた戻ったとは信じられない行動である。
 
何故帆掛け舟であったか。戦時下、民間の発動機船が建造され流通する余裕がなかったこともあろう。燃料の調達は不可能であった。ソ連軍あるいは北朝鮮当局になんらかの意図があったのかもしれない。いずれにしろ船は老朽の帆船漁船であった。航海の間には何度も帆柱が折れたという。
ソ連軍は残留指名者以外の日本人脱出を黙認した。北朝鮮当局は必ずしもそうではなかった。北朝鮮警察や軍もまたそれぞれの動きであった。闇舟たる所以である。
日本人世話会はこの船の経費を賄うため大人500円、小人300円を徴収した。すべて自力のプロジェクトであった。東京までの潜行を敢行した幹部が日本高周波本社および外務省 と折衝したが何の援助も得られなかった。
出征家族、養成工らにはその船賃が工面出来なかった。日本人世話会は日本人仲間で「引揚資金証券」を発行して資金を募り彼らを乗せた。帰国してから返す約束であった。個人間の貸借にしない知恵であった。
~~~子供たち~~~~~~~~~
子供たちはいつも群れていた。群れて遊んでいた。親に子供を顧みる余裕はなかった。トム・ソーヤーのように樹上に小屋を作って寝泊りしたり、ゴムのパチンコで鳥を撃ったりして、それなりに楽しい生活ではあった。群れるのは朝鮮人の子供に襲われるのを防ぐ意味もあった。学校とも勉強ともまったく縁の無い生活であった。
ソ連軍の行進には必ず歌があった。リードテナーの声は素晴らしく、いつしか一緒に歌うようにもなった。戦後うたごえ喫茶でそれらの歌を聞くことになるが、一義はうたごえ喫茶に行ったことはない。
 
父森下梅一が長男と次男を闇舟に乗せる決心をしたのは、9月になり自分が第2次の「残留者」として指名されたからである。少数の技術者とソ連との折衝当事者だけが指名された。梅一は<このまま一生日本に帰してもらえないのではないか>と感じた。
どうせ外地に朽ち果てるなら、子供だけでも運を天に任せて送り出そう。
 
すでに「帰国組」の脱出は終わり、それは最後の闇舟であった。共に働いてきた最後の「残留解除者」たちが乗り込んだ。
父は同居していた養成工YとTを守役につけ、11歳の長男と8歳の次男を海に送り出した。21年9月下旬のことであった。
 
 
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森下一義

2013.08.12

ゴロフクで思い出したこと

母がどういう時に<ゴロフク>の語を使ったのかを思い出した。
 
少し長くなるが10年前に書いた記録を再録させて頂く。
 
~~~敗戦時の我が家~~~~~~~~~
昭和20年8月9日、ソ連軍は突如満州への侵攻を開始した。
兵員170万人、航空機5千機、戦車5千台の大兵力だったという
戦後処理で日本への分け前確保を狙ったスターリンが急ぎに急いだ攻撃であり、ヒロシマ原爆投下の3日後のことであった。
この攻撃部隊が城津に到達したが8月23日であった。

日本高周波鋼業城津工場は鉄鉱石から製鋼、特殊鋼製品までの一貫製鉄工場で、日本人従業員2600人朝鮮人従業員4500人を擁する大軍需工場であった。家族を含め在留日本人は4300人を数えた。
わが家はその一員であった。

ソ連軍侵攻および敗戦を迎えて、城津の日本人はほとんんど為すところなかった。情報と指示が途絶えたのである。
そしてソ連軍の第1線部隊の進駐でたちまち厳しい現実に曝された。彼らは戦闘部隊であり、囚人で編成された部隊であると噂された
砂塵を捲いて進入する戦車部隊。沿道に旗を振って迎える朝鮮民衆。鳴り響く銃声。
兵隊は女を求めて日夜民家のドアを叩き、略奪は日常茶飯事であった。兵士たちは腕に10個もの腕時計を付けていた。
父は拳銃で殴られて歯を折り、帰国まで直す機会はなかった。朝鮮人の暴動も始まった。

工場の主だった幹部は拘束された。ある者はソ連に送られ、結局工場長は殺された。技師長の帰国は10数年後となる。
我々にとって幸いだったのはソ連軍が軍需工場に価値を見出したことである。はじめ彼らは重要な機械を撤去して本国に持ち去った。しかし20年12月に一部工場の操業を開始する。 そしてこの仕事を旧日本人従業員に任せた。
トップを失って残った城津工場幹部は残留する従業員を糾合して操業再開に協力した。そして邦人支援や祖国引揚げのための「日本人世話会」を作った。
朝鮮人従業員への預り金返還や退職金支払い等の残務処理を行ったまたソ連軍と交渉して日本人従業員の工場社宅への居住の保証を得した。
父森下梅一は当時34歳、経理課予算係長として幹部の一員であった。たまたまロシヤ語ができた。

この社宅居住の確保こそ我々の最大の幸運であったと思う。
敗戦により外地の日本行政組織は消滅し、満州および朝鮮の日本人は一切の国家の庇護を失った。そしてまず住宅を奪われた。
満州から、そして朝鮮国境から、家を失った日本人が続々と城津を通って南下していった。
「連日連夜来る日も来る日も真夏の炎天下を、敗戦の日本民族が大河となって流れていった。老幼女子からなるこのみじめなる大河の流れは、日本の歴史上いまだかってなき悲惨を極めた風景であった道々略奪暴行を受け、へとへとに疲れ果てては野宿し、歩けるぎりぎりまでを歩きつくして南朝鮮を目指していった。」と記録 (こうしゅうは-91北朝鮮引揚げ特集号)は記す。
藤原てい(「国家の品格」藤原正彦の母)の「流れる星は生きている」にその姿が詳しい 。私は目の当たりにそれを視た。

彼ら難民にとって高周波社宅に住み続ける我々は天国の住民の如くに見えただろう。

4300人の在留日本人がそのまま全員残ったわけではない。ソ連軍進駐前に逃げた者もいた。その頃はまだ南朝鮮への汽車が動いていた。歩いて逃げた者もいた。しかし大方は結束を保って帰国の時期を待った のであった。一つにはソ連軍が工場再開のために日本人の移動を禁じたからでもあった。

~~~生活~~~~~~~~~
生活は<売り食い>であった。
売れる物を売るしか生活の手段はなかった。敗戦国の製鉄工場の従業員にほかに何をする知恵も技術も環境も時間もなかった。
売るには、闇市に持って行くか、鮮人が買い取りに来るのであった。

売る物がない者は食えなかった。
そのために養成工がまず飢えた。養成工とは15、6才の青年を内地から呼び寄せ、寄宿舎に入れて一人前の工員に育成する制度である。若い彼らには売る家財・衣類が無かった。
早い時期に歩いて脱出した者もいたがが残る者も多かった。目のあたりに見る南下する難民の悲惨さが、歩いての脱出をためらわせた。
わが家でも2人の養成工を引き取った。

ソ連軍による日本人移動禁止命令のみあって、現前の生活手段も先行きの見通しも何も与えられないままの不安の時期が続いた。
しかし工場の製品および機械設備の搬出が始まり、12月になって工場の操業が一部再開された。日本人はその使役に駆り出され、1200名が働き、それらの労働に対して大豆・高粱の配給と給与が支給され るようになった。若干の秩序が戻った。
日本人世話会は配給の食糧および給与をプールして皆で配分した。出征留守家族や養成工にも配分された。
正月を迎えるある日、母節子が「ごめんなさいね。これしかあげられないのよ。」と言って闇市で買った飴玉を2粒渡してくれたことを鮮明に覚えている。どうして親が子供に謝るのか不思議に思った。ほかに正月の料理は何もなかった。
飴玉とて他の同居家族の眼を憚るものであっただろう。

栄養失調者は続出し幼児の死亡が増加した。脱出者の空家も増えた。出征遺家族、養成工、養成看護婦など生活力なき者の困窮が深まるなか、社宅集約が実行された。
我が家は、我が家族(父、母、一義10歳、一乗7歳、迪子4歳、一期2歳)、母の妹およびその夫(高周波社員)、S出征社員の留守家族(妻、幼児、乳児)、養成工2名の13人の所帯となった。

~~~ゴロフク~~~~~~~~~
<ゴロフク>の語を聞いたのはこの時である。
鮮人が裏口に来て「何かないか」という。出すものは衣類しかないから、着物とかコートを出して食物と替える。
そんな時母が言ったのだ。「これは<ゴロフク>だからね。沢山出しなさいよ。」
鮮人に<ゴロフク>が判るわけはない。しかし寒い土地で舶来の毛織物はそれなりの価値があったのだろう
10才の少年の記憶に残った。
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
森下一義

ゴロフク

お暑うございます。
 
~~~母見舞い~~~~~~~~~
8月5日は私の78才の誕生日でした。
99才の母の見舞いに行きました。
2度の脳梗塞を経て記憶はすっかり衰えましたが、食堂へもトイレへも杖で自力で歩きます。有難いことです。
72才の妹が付き合ってくれました。
 
~~~流行らない店~~~~~~~~~
昼食に横浜の駅ビルの7階のレストラン街に上りました。
焼き鳥やの店に入り、地鶏ハンバーグと焼き鳥の定食にしました。
入る時靴を脱がせたので抵抗を感じたのですが、そのせいか、1組の先客が出て行ったあとの客は私だけでした。
翌日から腹具合が悪く、いまだにしっくりしません。
流行らない店に入るものではありませんね。
 
~~~映画~~~~~~~~~
それから「終戦のエンペラー」を観ました。
米軍は進駐直後に戦犯ターゲット30名の逮捕に向かったのですね
東京在住の同期諸兄にはそんな動きを肌に感じていた人もいるのでしょう。
同じ時期私はソ連軍の第一線部隊の進駐を受けていました。第一線部隊はガラが悪いのです。
 
~~~読書~~~~~~~~~
NHK「八重の桜」を観ています。
それに連られてか、腹具合の悪い中でこんな本を読みました。
「武士の娘」-杉本鉞子
  長岡藩家老の娘(明治6年生れ)が不思議な縁でアメリカに渡り、英文で書いた自伝で当時の世界的ベストセラーだそうです。
「鉞子(えつこ)  世界を魅了した「武士の娘」の生涯」-内田 義雄
  同上の解説本
「ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 」-石光 真人
「黒船来航  日本語が動く 」-清水 康行
 
~~~ゴロフク~~~~~~~~~
「武士の娘」の中で、アメリカに渡った鉞子が夫(鉞子の兄の知人で貿易商)に<ゴロフク>に代えて初めて洋服を買ってもらった喜びを書いています。
私はこの<ゴロフク>の語に記憶がありました。遥か昔、母と叔母が使っていたのでしょう。意味など判らず突然浮かび上がった言葉です。4才下の妻は知りませんでした。
『近世舶来のごつごつした毛織物。帯地・カッパ地などに用いた。ゴロ。ゴロフク。ゴロフクリン。「呉絽服連」とも書く。』
鉞子は舶来の帯地でコートでも作ってもらって持参したのでしょう
 
 
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森下一義

2013.08.06

家直し

1階の床板貼り直しの工事を始めて3週間経過しました。
 
始めてみれば電気工事、塗装工事など次々出てくるし、家財や書類の整理は限りなく、まだ落ち着きませんが一応掃除機を動かすところまで漕ぎ付けました。
 
10年先とは云わず5年先になってもこの工事はやれなかったでしょうね。今だから出来たと思います。
 
沢村貞子がすべてを捨ててマンション暮らしに移った境地にはまだ至りません。
 

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