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2013.08.14

ゴロフクで思い出したこと-3

~~~~闇舟の航海~~~~~~~~
38度線を越えるまで航海3日の予定であった。
船は沿岸の北朝鮮漁船や警備艇を避けて遠く沖出しした。深く、蒼い海だった。エンジンのない帆掛け舟は静かに静かに進んだ。
一義はひたすら海の底を眺め続けた。夜はデッキの上で星を見上げた。デッキの上は夜露が降りる。しかし船内に兄弟2人の寝場所はもうなかった。
すでに乗り込んだ最初から、居場所の確保や食事の配給において親のいない子の立場は弱いのであった。
 
3日目は嵐になった。
嵐の中での大人たちの狂態を、一義はむしろ<いい気味だ>と思って見ていた。結局目的の港に入るまでに7日を要した。
老朽の木造漁船の上で、トイレは板をまたいで直接海に落とすものであった。女子供、8歳の弟がどのようにしたか、覚えがない。
40名分の炊飯の設備はなかった。なにより水が切れてきた。飢えと不安が船の上を覆った。
 
最後の日、北朝鮮警備艇の銃撃を受けた。拿捕が目的だったのか、海賊目的だったのか、判らない。ただ銃口の閃光だけが強烈な記憶である。
それをどうして脱したのか記憶がない。ちょうど米軍のボートが通りかかって曳航してくれたのだったか。
 
入った港は註文津(ちゅうもんしん)である。
この時期、南鮮における日本人引揚げの拠点として米軍のキャンプがあった。ここから日本内地向けの引揚船が出航した。
このキャンプに兄弟は10日ほど滞在した。この頃まではまだ2人の養成工は一緒だった。
そして内地向けの引揚船に乗った。リバテイ船と呼ばれる戦時型貨物輸送船であった。
着いた港が佐世保であった。
内地の山の緑が眼に染みた。
 
~~~~旅の残り・祖父母のもとへ~~~~~~~~
目的地は祖父母の住む愛知県渥美郡福江町(現渥美町→田原市)小中山であった。
守役の養成工はそれぞれ故郷近くで降り、わが兄弟2人は進行方向に進む人に託された。思えば彼らも18、9才の未成年であった。
託された人が終点まで送ってくれたわけではない。次々とリレーされた。名古屋駅やどこかの農家に数日留め置かれたこともあった。
多くの人のお世話になったが、多くの危険を踏んでいたようにも思う。佐世保から2週間以上を要している。浮浪児との境界線にあった。
 
最後に託された人は福江のバス停まで我々を届け、祖父に電話をして去った。
祖父母は吃驚仰天したであろう。孫が2人、いきなり福江に居るというのだ。祖父は4キロの道を走ってきてくれた。まだ車のない時代であった。
あのバス停で待った時間の記憶は深い。
 
21年11月、わが兄弟は福江町立中山小学校の5年生と2年生に復学した。1年3ヶ月の学業ブランクであった。幸い学年の遅れはなかった。
一義は全身に吹き出物が生じ、中学1年の2学期を結核性肺浸潤で休学した。欠食と栄養不良の結果であろう。
こうして私の義務教育には2年の欠落がある。自分に偏頗なところがあることを自覚している。
 
父母と妹、末弟は1年後に帰還した。
豊橋の駅頭で再会するまで、親と子は互いの安否を知らなかった。
~~~~小中山漁港~~~~~~~~
小中山は渥美半島伊良湖岬をちょっと三河湾に入った半農半漁の小村である。
兄弟はすぐに半農半漁の生活に入った。麦刈り、田の草取りの辛さが身にしみた。
稲束を満載して兄が曳き弟が押すリアカーを坂道で制御出来ず、養魚池に飛び込んだこともあった。
この時期、物資の不足から日本全体が本卦がえりしたというか、機械や動力のない時代に戻っていた。すべてが原始的だった。例えば脱穀も精米も足踏み式でやっていた。
 
春には西の浜にコウナゴが押し寄せた。それを地引網でとり、浜で大釜で煮て、筵に干して煮干にするのである。村中総出の作業であった。
コウナゴが寄せる場所には筋があり、何度網を入れてもまた同じ場所に寄せてくるのである。だからその筋に網を入れようと、何統もの網船が順番を待って並ぶ。後ろから押されるから この並ぶことを<オサレ>という。
網船は勇ましく櫓で漕ぐのであった。4丁櫓だったか、今から思えば信じられないことだ。沖に出る外洋漁船はさすがに動力船だった。
コウナゴが寄せる日、半鐘が鳴って学校は臨時休講になった。地引網を曳くのに中学生には半日当が出るのに6年生には出ないのが悔しかった。
 
海苔の収穫、加工も1人前に手伝った。海中に入ってノリソダから海苔をハサミで切り取り、裁断してタコに干す。真冬の辛い作業だ。今はこの全てが機械化されている。
小中山の海苔は真っ黒い海苔で、いい値段になった。町の人がそんなにも高いお金を払うことが不思議に思われた。
 
祖父はもう隠居の身分で、手漕ぎの漁船で小漁師をやっていた。三枚網という刺し網の一種を仕掛けて待つのである。その櫓を兄が漕ぎ、弟は網を手伝った。
力いっぱい櫓を押して身を乗り出すと、爪先を残して全身が海の上だった。田舎では<櫓櫂(ろかい)3年、竿8年>という。櫓よりも竿を操る方が難しい。
 
結局小中山の生活は1年10ヶ月で豊橋市に移った。
闇舟体験と小中山体験で海は一義の身体に染み込んだ。
これが私のヨット遊びの原点である。
 
私は豊橋東高校を経て一橋大学に進んだ。この頃一家は東京に転居した。
弟も同じ一橋大学に入り、ボート部の代表幹事を務め、新日鉄に入社した。
なお末弟は東京工大であった。
 
 
追記
<森下が引揚者とは知らなかった>とよく言われた。
引揚者に対する差別、蔑視があるのを感じて、自分から言うことはなかった。
 
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森下一義

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