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2012.10.31

老老介護の一例

昨日は伊○市○病院のボ○ンテイア会の定期総会であった。

市○病院では<案内隊><おしぼり隊><鉢の水やり><草刈り><図書><紙芝居><アロママッサージ>などいろんなボランテイア活動がなされている。

われらIGCでは10年来玄関まわりの空地を花壇にして四季の花を植えている。除草、水やりなど負担は大きい。

会が始まったところで会長(85才)の病没が告げられた。

昨年の総会で、体調が悪いのなら交代したらどうかとの意見も出たのだが、本人がやる気だし事務局もそのつもりだったので続投していた。

そのことを告げた副会長が直後に体調不調となり、車椅子で退出した。

結局次期会長にはその副会長が昇格し、副会長には欠席中の別人が選ばれた。

老老介護の一例である。

 

2012.10.30

孟宗竹の細工

私が習っている生け花の森本先生は高年でもあり小原流東京支部在籍のままで中伊豆での教室を沼津支部に登録していませんが、先生を慕う5-6名の弟子が月に1-2回稽古を受けます。
今後森本社中と書きましょう。

修善寺での11月2日の活けこみ、3-4日の展示を控えていますが、連日IGCやオープンガーデンなどの行事が続き息も絶え絶えのところ、今日先生から「その前に一度稽古にいらっしゃい」との電話を受けました。
とてもその余裕はありません。ひたすら言い訳と逃げ口上でした。

今日は鉢の後ろに立てる孟宗竹の工作をしました。

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この孟宗竹を入手するにも一苦労あったのですが省略します。
曲面カンナは先生からの借り物です。80才の先生はこういう道具を軽々と振って自分で細工なさいます。私も先生の家で実地に習って、カンナを借りてきました。刃があまり切れなくなっていたので、刃を取り替えました。
工作台は今回生まれて初めて買いました。
<孟宗竹の入手、曲面カンナ使用法の習得、刃の交換、工作台の入手と、この写真までに多くのステップを要しています。>


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一応出来上がって立ててみたところです。
この前面に大王松を活けた鉢を飾ります。

この竹を立てる台に苦労しました。写真に見える板に穴を空けて径45ミリ、長さ40センチの丸棒を打ち込んであります。
径45ミリの穴を空けるのに、そのドリル刃を購入してわが家で始めたところドリルの能力オーバーでドリルがヘタってしまいました。大きなドリルを買うのも大変だし、あちこち探して大きなドリルのレンタルのある店を探しました。
竹が正立していないのは、穴を真っ直ぐ開けられず曲がってしまったためです。難しいものです。

今日の作業はこれまで。
まだささくれをペーパーで直したり、竹を磨いたりしなければなりません。
先生からそう言われています。


 


花の苗フリーマーケット

雨になるかとみんなで心配しましたが、幸いIGCの「花の苗フリーマーケット」は無事に挙行されました。

幹事さん一同の心掛けが良かったからだと思います。

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終わって反省会だったのですが、我が家は巡回バスが来るので早々に引き揚げました。

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手乗りヤマガラ

以前は毎朝小鳥のエサをやっていて、電線にシジュウカラが10数羽も止まって待っているなど楽しかったのですが、7-6年前からリスが寄って来るのでやめていました。

このところリスも減った感じで、ヤマガラを見掛けたのでヒマワリをやったら毎日来るようになりました。

今のところヤマガラ3羽とシジュウカラ数羽が常連です。

幸いリスは来ていません。

そしてヤマガラが手に乗るようになりました。

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室内から手を出してやっています。

今秋最初の庭巡りバスと細野高原

24日、今年の秋の庭巡りバス第1便が来ました。

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(ガーデンセットのペイントも塗り替えて・・・)
 


夏の間ほったらかしだった庭を、この3週間ほど必死で片付けました。

花を植えるとか、そんな段階ではなく、ひたすら草取りです。

直前の23、24日朝だけで大きな草袋4袋になりました。

27、28、1日とバスが続きます。


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25日、静岡県の講習会でIGCの仲間4人と三島に行きました。

午前中講義で、とてもためになりました。

例えば土を酸性にするには<ピートモスと馬糞と赤玉土を混ぜて施す。ピートモスだけだと水を被ると固まって作用しない。>、<アブラムシは中性洗剤を5滴入れた水をスプレー。>、<コンパニオンプランツと言われるマリーゴールドは誤訳で、本当はキンセンカである。>、<松を切るにはセラミック鋏で。>などなど。

午後は三島のオープンガーデンを巡りました。


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26日の今日は稲取の細野高原にススキを見に行きました。

仙石原の7倍広いと、去年あたりから東伊豆町が威張って宣伝しています。

135号線から5キロ近く上ります。離合も出来ないような旧道で大変です。

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秋は忙しいです。

生け花展示会リハーサル

森本先生の生け花グループは11月3,4日に修善寺で展示を行います。

22日、そのリハーサルを行いました。


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鉢は飯塚の高鶴元の作品で、重くて普段はさっぱり出番がないのですが、今回使うことにしました。

大王松(だいおうしょう)は先生の近くの農家から頂きました。謝礼は千円の菓子折りです。

これは練習用で本番はもっと大きな枝があります。どうやって立てようか、今から頭が痛いです。

黄色い花はわが庭のカッシア(アンデスの乙女)。先生は大満足ですが本番の日まで咲いているかどうか心配です。

白い花は庭のランタナです。

鉢の後ろに青い孟宗竹を5本立てます。

その竹の手配、細工、立てる工夫。 生け花がこんなに大変なものとは知りませんでした。

2012.10.21

カムチャッカ半島と千島列島-3

私が何故千島列島に強い関心を持つのか?

私が樺太=サハリン生れだからであろう。


 


何故樺太で生まれたか?

父(森下梅一)と母(三浦節子)が樺太に居たからである。

 

何故父と母は樺太に居たか?

父の父母(森下一郎、きそ)、母の父母(三浦義男、しず)が樺太に居たからである。

 

母方

私の母方の祖父三浦義男は大分県宇佐郡安心院の出である。

つい先年、「駱駝」という雑誌で<日本一美しい村>と紹介された。

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陸軍軍人であったが大正の軍縮で若くして中佐で退役した。さらに僻地で国にご奉公をと樺太に渡り、雪深い北辺の地で町長など務めたという。

娘節子は豊原高女を卒業し小学校の教諭となった。

 

父方

父方の祖父森下一郎は愛知県渥美郡小中山の出である。伊良湖岬の三河湾側の半農半漁の豊かな村である。祖母キソは村に1軒、今に続く旅館小川屋の娘である。
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伊良湖岬灯台から神島、鳥羽方面を望む


一郎は海外雄飛の大志もだしがたく、家督を弟に譲って樺太豊原に渡り小間物屋(化粧品店?)「美好軒」を開いた。

息子梅一は小樽高商を出て昭和6年樺太道庁に就職した。

 

一義誕生

かくして樺太・豊原市(現ユジノサハリンスク)において梅一・節子が結ばれ、昭和10年私・一義が誕生したのである。

 

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梅一は樺太道庁から朝鮮総督府に転属し、時勢がら新鋭の軍需工業「日本高周波鋼業-城津工場」に転職した。

敗戦。

梅一はソ連軍により工場保安要員として抑留され、生涯帰国の望みを絶たれたと思った。

せめて子供のうち半分でも日本に帰したいと、昭和21年9月、エンジンのない帆掛け船の漁船をチャーターして11歳の長男・私と8歳の次男一乗を送り出した。

 
私のヨットライフの起源である。

 
なお弟は私と同じ一橋大学に入学し、ボート部の代表幹事を務め新日鉄に入社した。

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私が北洋に関心を持つ所以をお分かり頂けただろうか。

 

なお母節子は決して樺太を再訪したいとは言わなかった。

北辺の僻村での生活は、郡司の報效義会の如くであったのだろうか?

 


カムチャッカ半島と千島列島-2

「北の墓標-小説 郡司大尉」 (夏堀正元 中公文庫 1978)

夏堀正元は1925年生れ。文庫所収が1978年であるが初刊は不明。豊田穣の「北洋の開拓者」が1994年刊であるから、それより20-30年前に書かれた。

全体として

ノンフィクションと言っていいほど着実な記述である。文章もケレン味が無く抑制がきいて格調高い。

対象

豊田著と殆ど同じテーマ、同じ時期を扱うが、出発前の郡司周辺の事情や参加者選抜の経過など詳しい。


 


白瀬 矗(のぶ)
郡司は隊員を海軍水兵で固めることを目指したが、100名を超える隊員には異分子も含まれることとなった。白瀬は陸軍中尉であったがかねて北極探検の抱負を持ち、その準備体験として千島航に参加した。

明治26年8月、郡司一行は占守島に到着。越冬。

翌年、郡司は日清戦争に応召する。島を去るにあたり郡司は白瀬に後を託す。

白瀬の目的は拓殖になく、自分も島を去ることを強く求めたが、郡司が強引に説き伏せた。

結局白瀬ら6名が2年目の越冬に入ったが春までに3名が死亡、1名が精神に異常を来す厳しい体験であった。白瀬は郡司を深く恨み、終生和解は無かった。

後に白瀬は南極探検に名を残すが、満ち足りた生涯ではなかったようだ。

白瀬 矗については夏堀著が詳しい。


 
 


郡司のカムチャッカ侵攻と拿捕

明治34,5年には占守島の報效義会のメンバーは200人にもなり、夫婦での入植や現地での結婚など定住の形がついてきた。缶詰工場が出来、多くの日本漁船が寄港した。

明治37年日露戦争の勃発を知った郡司は、無謀にも25名でカムチャッカに侵攻する。しかし相手は軍隊である。全員捕虜となる。 ウラジオストックに送られ、戦後捕虜交換で帰国。

占守島撤退と別所佐吉

明治38年、リーダーを失った報效義会は占守島を撤退する。しかし別所佐吉ほか10数名は残留する。

結局別所佐吉一家は昭和20年8月18-23日の太平洋戦争最後の日まで占守島に残留した。

昭和44年、夏堀は根室の開拓地に別所二郎蔵を訪ねた。佐吉の息子63才である。

この訪問こそ夏堀著の白眉ではないだろうか。豊田著には無い部分である。

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「北千島冒険紀行」(阿部幹雄 山と渓谷社 1992年)

阿部幹雄は1953年生れ。

フリージャーナリストとしてFOCUSなどに寄稿。本書もFOCUSに発表した記事をまとめたものである。

1990年、阿部は千島列島の最高峰阿頼度山からのスキー滑降を目指して幌筵島、占守島、阿頼度島を訪れた。
北大スキー部の後輩3名を引き連れての山行であった。

大学運動部としての蓄積、素養を背景に、充分な準備を整えた計画だったようだ。

目的は達成された。

ペレストロイカとソ連崩壊の束の間の時期であった。

写真は同書より

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私には、位置関係は違うが幌筵島(新島)、占守島(式根島)、阿頼度島(利島)、

カムチャッカ半島(伊豆半島)と見えてしまう。

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占守島に立つ志士の碑 郡司成忠建立   撮影-阿部 1990年

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幌筵島から望んだ阿頼度山(1島1山 活火山)

占守島から見る阿頼度島もこのようであったか


 


2012.10.17

復興予算でグリーンピース対策

日本政府は東北大震災復興予算で、捕鯨反対のグリーンピース対策費を支出しているそうだ。


そもそも捕鯨は国がやることなのか?


下の写真をご覧頂きたい。

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Stop Shell, Save The Arctic とは何か?


北極海の氷が解けてきて、石油資本が北極海の海底の探索を始めようとしている。

それに対してヨーロッパでは<もしメキシコ湾のような事故が発生して原油が流出がしたら回復のしようがない。絶対にやめるべきだ。>との反対運動が起きた。


その中心になっているのがグリーンピースで、特にシェルのガソリンスタンドでシロクマの縫いぐるみを被ってのピケを張った。

裁判沙汰になったが、このほどオランダではピケを認める判決が下りたそうだ。

1時間以内とか、条件は付いたようだが。


シェルは取りあえず今年の探索作業はやめた。

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とにかくグリーンピースを懲らしめるのに国の予算を使うのはおかしい。

ましてそれが震災復興予算の流用であるにおいておや。

 

2012.10.16

カムチャッカ半島と千島列島

昨日18時、TBSでカムチャッカ半島の映像を見ました。

4835mのクリュチェフスカヤ火山など見事に美しい映像でした。てっきり海外からの購入フィルムかと思ったらTBS制作で驚きました。

かねてカムチャッカに関心を持っていた私にとって貴重なTV鑑賞でした。



カムチャッカへの関心の理由はいろいろありますが(私は樺太豊原生れ)、その1つが郡司大尉の占守島(シュムシュ島)経営です。

なんとこの人は隅田川からボートを漕いで千島に向けて出発したのでした。

この時期、千島列島は全島が日本領でした。

日露戦争時、郡司大尉は陽動作戦としてカムチャッカに上陸します。そして「天地長久日本領」の標柱を立てます。



2005年5月にこの通信に書いた記事を再録します。

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明治26年、郡司成忠退役海軍大尉率いる報効義会会員38名は北千島に向かうべく、隅田川言問橋から短艇5艘(海軍払下げの9メートルのボート)を漕いで出航した。
目的は海軍経験者により北千島最北端シュムシュ島に入植し、わが国土・資源・権益を確保しようというものであった。多くの賛同者を得たが資金は集まらず、それならばと漕艇による航海を決行したのであった。
明治8年ロシアと日本は樺太と千島を交換し、当時千島列島全島が日本領土であった。日本政府はカムチャッカと交流のある千島アイヌをエトロフ島などに移住させ、シュムシュ島は無人であった。


途中、八戸から白糠港に至る間、荒天により2隻が遭難し19名が死亡した。
シュムシュ島に到り最初の越冬、、次年の越冬で15名が死亡した。

郡司は2年目の越冬の前に日清戦争に応召し、白瀬陸軍少尉がシュムシュ島の次年目越冬の指揮をとるが、6名中3名死亡1名精神異常の辛酸を嘗めた白瀬は以後の郡司との行動を断る。後に南極探検で名を残す。

日清戦争の勝利で北方に向ける国内の眼も変わり、多少の資金も得て明治29年郡司は第2次入植隊を出発させる。家族を含め56名であった。
結婚式あり、子供も生まれ、一行の入植生活は一応の安定を得る。

明治37年日露戦争勃発。
これを聞いた郡司は、北方における陽動作戦でロシア軍を牽制するべく志願者19名の義勇隊でカムチャッカに進攻するのである。この時郡司が立てた「天地長久日本領 報効義会」の標柱は現在ハバロフスク博物館にあるという。
結局郡司は捕らえられ、戦後の捕虜交換で帰還する。
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これは「北洋の開拓者-郡司成忠大尉の挑戦」(豊田穣 講談社 94年刊)によります。
「郡司大尉」で検索しても詳しく出ています。Wiki 因みに郡司大尉は幸田露伴の次兄です。養子に行って姓が異なります。

このあと2冊カムチャッカ関連の本を読みましたので、続編を書きます。

 

2012.10.12

駒澤大学駅事件で思い出したこと

駒澤大学駅から800Mの場所で爺さんと婆さんの刃傷事件が報じられた。

私は駅から300Mに住んでいたので殊更関心が強い。

 

私はこの事件では爺さんに同情する。

婆さんが悪い。

奈良の布団叩き婆さんが思い出された。あの顔で馬乗りになって叩かれてみろよ、どんな年寄りだって怒るよ。
 

婆さんは怖ろしい。


 

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私の家の向かいにあの爺さんの家のようなしもた家があった。

家主は60代後半の女医さんの一人暮らしで、埼玉だかの病院に通っていた。毎朝暗いうちに出て、帰宅は何時になるのか顔を見ることはなかった。バードウオッチングが趣味でイギリスとかNZへ鳥を見に行くのであった。
 

2階にイギリス人の爺さんが間借りしていた。

カーネルおじさんに似ていて、TVのCMの外タレとして生計をたてていた。

問題は日本語をまったく使わないことだった。水兵あがりで、もう20年も日本に居るのに日本語を全く解さなかった。程度が低い。

それでだんだんに仕事が無くなった。

イギリスに身寄りがいるとかで一度帰ったが、居られずに結局戻ってきた。

そして糖尿で片足を切断した。
 

あの婆さんと爺さん、その後どうしたか。
 

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英会話など習ったことのない妻が、このカーネルおじさんとの会話で英会話を覚えた。

 


わが家から駒沢公園に歩く途中に太陽スポーツセンターがあり、妻は腰痛教室の看板につられて水泳を始めた。

そこで素晴らしい指導者に出会い、それまでプールなど逃げて回っていた妻が50才にして水泳をマスターし、今でも連続で2キロ泳ぐ。U先生には本当に感謝している。
 

やはり駒澤に住んでいた頃、世界聾唖者東京大会があり、妻は国際手話(ジェスチューノ)でボランテイアを勤めた。
 

こうして振り返ると、あの辺り文教都市であったなあと思う。

 

2012.10.11

困ったこと-村上春樹ほか

村上春樹がノーベル賞の最有力候補だと喧しい。

困ったことだ。

私も人並みに村上春樹を読もうかとこれまでに何冊か買った。

しかしどれもどうしても読み続けられなかった。

理由は判らない。ただ頭に入っていかず、読み続けられないのである。

 


読みさしのまま置いて、愛着がないからBookOffへのお払いになる。


 

別に村上春樹への好き嫌い、恨みつらみはない。

政治的反感も無い。

困ったことである。

 


他に、大江健三郎、三島由紀夫も読めなくて読まない。

私の頭のどこかに欠陥か変調か偏向がある。


 

2012.10.10

露伴と掃苔

私はなんとなく幸田露伴のファンである。



こんな文章を見付けた。

<ところで西鶴の墓は、明治十年代に西鶴を再発見させた東京人・淡島寒月の買い集めた西鶴本を写しては読んだ幸田露伴が、明治二十二年に大阪まで掃苔に訪れた時、その墓石が無縁塔のなかにあるのを見つけ、志をつけて寺へ移葬を頼んだという。>
(富岡多恵子 「ト書集」-知るも知らぬも大阪の・・・)


 


所感1

この時代、本は自ら写して読んだ。

寒月が発掘した西鶴本も写本、露伴はそれを自分で写して読んだ。


 


2.掃苔

墓参りを掃苔というのか。 いい言葉だ。

 

3.

明治22年とは露伴22歳。「露団々」「風流物」を書いた年で、まだまだ文壇に地歩を築いたとは言えぬ時期である。

それがわざわざ大阪まで西鶴の墓を訪ね、見兼ねて移葬を頼んだというのか!


 


4.

修善寺-新井旅館で写した露伴の手稿を思い出した。
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5.

たまたま 「私の掃苔録」なるサイトを見付けた。

自分で写した有名人の墓所の写真を載せている。露伴・文の墓所もある。



2012.10.09

ノーベル医学賞の廃止を

山中教授のノーベル賞受賞というこんな時期に言うのはタイミングが悪いのだが、私は医学の進歩に対して否定的である。

医学はもう進歩して欲しくないと思うのである。


地球上の人間は70億人を超えた。

せめて30億人以下に抑えなくてはいけない。

エネルギー、水、食料、環境、すべての問題は人間の数の多さに起因する。


医学はもう進歩してはいけない。

痛みの緩和だけを目指せばいい。


手始めにノーベル医学賞を廃止してはどうか。

それでこそノルウエイだ。

 

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