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2012.10.21

カムチャッカ半島と千島列島-2

「北の墓標-小説 郡司大尉」 (夏堀正元 中公文庫 1978)

夏堀正元は1925年生れ。文庫所収が1978年であるが初刊は不明。豊田穣の「北洋の開拓者」が1994年刊であるから、それより20-30年前に書かれた。

全体として

ノンフィクションと言っていいほど着実な記述である。文章もケレン味が無く抑制がきいて格調高い。

対象

豊田著と殆ど同じテーマ、同じ時期を扱うが、出発前の郡司周辺の事情や参加者選抜の経過など詳しい。


 


白瀬 矗(のぶ)
郡司は隊員を海軍水兵で固めることを目指したが、100名を超える隊員には異分子も含まれることとなった。白瀬は陸軍中尉であったがかねて北極探検の抱負を持ち、その準備体験として千島航に参加した。

明治26年8月、郡司一行は占守島に到着。越冬。

翌年、郡司は日清戦争に応召する。島を去るにあたり郡司は白瀬に後を託す。

白瀬の目的は拓殖になく、自分も島を去ることを強く求めたが、郡司が強引に説き伏せた。

結局白瀬ら6名が2年目の越冬に入ったが春までに3名が死亡、1名が精神に異常を来す厳しい体験であった。白瀬は郡司を深く恨み、終生和解は無かった。

後に白瀬は南極探検に名を残すが、満ち足りた生涯ではなかったようだ。

白瀬 矗については夏堀著が詳しい。


 
 


郡司のカムチャッカ侵攻と拿捕

明治34,5年には占守島の報效義会のメンバーは200人にもなり、夫婦での入植や現地での結婚など定住の形がついてきた。缶詰工場が出来、多くの日本漁船が寄港した。

明治37年日露戦争の勃発を知った郡司は、無謀にも25名でカムチャッカに侵攻する。しかし相手は軍隊である。全員捕虜となる。 ウラジオストックに送られ、戦後捕虜交換で帰国。

占守島撤退と別所佐吉

明治38年、リーダーを失った報效義会は占守島を撤退する。しかし別所佐吉ほか10数名は残留する。

結局別所佐吉一家は昭和20年8月18-23日の太平洋戦争最後の日まで占守島に残留した。

昭和44年、夏堀は根室の開拓地に別所二郎蔵を訪ねた。佐吉の息子63才である。

この訪問こそ夏堀著の白眉ではないだろうか。豊田著には無い部分である。

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「北千島冒険紀行」(阿部幹雄 山と渓谷社 1992年)

阿部幹雄は1953年生れ。

フリージャーナリストとしてFOCUSなどに寄稿。本書もFOCUSに発表した記事をまとめたものである。

1990年、阿部は千島列島の最高峰阿頼度山からのスキー滑降を目指して幌筵島、占守島、阿頼度島を訪れた。
北大スキー部の後輩3名を引き連れての山行であった。

大学運動部としての蓄積、素養を背景に、充分な準備を整えた計画だったようだ。

目的は達成された。

ペレストロイカとソ連崩壊の束の間の時期であった。

写真は同書より

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私には、位置関係は違うが幌筵島(新島)、占守島(式根島)、阿頼度島(利島)、

カムチャッカ半島(伊豆半島)と見えてしまう。

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占守島に立つ志士の碑 郡司成忠建立   撮影-阿部 1990年

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幌筵島から望んだ阿頼度山(1島1山 活火山)

占守島から見る阿頼度島もこのようであったか


 


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