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2011.02.27

北方領土-郡司成忠大尉の千島暮らし

<朝まで生テレビ>ならぬ<朝から生テレビ>を観た。

早く起き過ぎてテレビをつけたら最後の方で北方領土問題をやっていた。

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明治26年、郡司成忠退役海軍大尉率いる報効義会会員38名は北千島に向かうべく、隅田川言問橋から短艇5艘(海軍払下げの9メートルのボート)を漕いで出航した。
目的は海軍経験者により北千島最北端シュムシュ島に入植し、わが国土・資源・権益を確保しようというものであった。多くの賛同者を得たが資金は集まらず、それならばと漕艇による航海を決行したのであった。

明治8年ロシアと日本は樺太と千島を交換し、当時千島列島全島が日本領土であった。日本政府はカムチャッカと交流のある千島アイヌをエトロフ島などに移住させ、シュムシュ島は無人であった。
途中、八戸から白糠港に至る間、荒天により2隻が遭難し19名が死亡した。
シュムシュ島に到り最初の越冬、、次年の越冬で15名が死亡した。

郡司は2年目の越冬の前に日清戦争に応召し、白瀬陸軍少尉がシュムシュ島の次年目越冬の指揮をとるが、6名中3名死亡1名精神異常の辛酸を嘗めた白瀬は以後の郡司との行動を断る。後に南極探検で名を残す。

日清戦争の勝利で北方に向ける国内の眼も変わり、多少の資金も得て明治29年郡司は第2次入植隊を出発させる。家族を含め56名であった。
結婚式あり、子供も生まれ、一行の入植生活は一応の安定を得る。

明治37年日露戦争勃発。
これを聞いた郡司は、北方における陽動作戦でロシア軍を牽制するべく志願者19名の義勇隊でカムチャッカに進攻するのである。この時郡司が立てた「天地長久日本領 報効義会」の標柱は現在ハバロフスク博物館にあるという。
結局郡司は捕らえられ、戦後の捕虜交換で帰還する。
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これは5年前にこのブログに書いた記事である。
「北洋の開拓者-郡司成忠大尉の挑戦」(豊田穣著 講談社 1994)による。
郡司大尉は幸田露伴の実兄である。

 

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