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2007.03.31

おしとねすべり

春の花がだんだんに咲きそろうが、その中で盛りを過ぎていく花もある。
花は子孫を残すために咲く。種子を作るために咲く。
だから種子を作り始めた花は閉じて萎れる。
人間は勝手だから新しい花を咲かせるために閉じた花を摘む。

種子を作り始めたパンジーの花はそっと閉じて背をかがめ、身を隠すようにする。そして次に咲いてくる花に舞台を譲る。
その姿が私には可憐でならない。自ら<おしとねすべり>を申し出たように見える。
志しに報いるために、閉じた花をせっせと摘んでやろう。

<おしとねすべり>はもう古語だろうな。辞書をひいて下さい。

2007.03.30

映画「蒼き狼」を観た

遅ればせながら映画「蒼き狼」を観た。
昨年の10、11月頃ジョン・マンの「チンギス・ハン」ほかモンゴル絡み、中央アジア絡みの本を5、6冊読んだので観たいと思っていた。
反町隆史と菊川玲と大勢のエキストラがワアワアとやっていて、モンゴルについて特に新しい知識を与えてくれるものではなかった。
ただ出てくる馬がどれもこれも<これがアラビアンホースであるか>と思わせるのであった。
製作・総指揮-角川春樹とあったが、もう何才になるのだろう?

毎度書くように映画館まで山を越えて80分かかる。だからそう気軽には出掛けられない。

それにつけても思うのだ。
東京には次から次に新しい施設が出来て、旨そうな食べ物があるらしくて、素敵な洋服が飾ってあって、催し物も多々あって、行こうとおもえば気軽に出掛けられるのだから、ストレスが多いだろうと思う。
木の葉を入れたら札になる財布でも持たない限り、出掛けて楽しいとは思えない。

年金生活者はたまに遠出して敬老割引の1000円で映画を観るくらいが丁度いい。

2007.03.29

伊豆オープンガーデンの巡回バス

今年の伊豆オープンガーデン巡回バスの予定が決まった。
こちら をご覧あれ。


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花瓶の水

妻は花が好きだ。いつも花を絶やさない。
鉢花も出窓やあちこちの部屋に置ききれないほどあるが、切花も飾りたい。
庭で切ってきては挿して、「庭の花で飾れるなんて、しあわせだなあ」といつも言う。

今朝は花を切ってくるのが間に合わなくて、「まだ水だけだけど」と言って花瓶に水だけ入れてテーブルに置いたのには2人で笑ってしまった。

2007.03.28

遠笠山に上った

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今年中学に進学する孫が始めての一人旅で伊豆にやってきた。
24日、遠笠山に上った。

遠笠山は天城連峰の1で、毎朝の散歩道から正面に見える。
標高1187Mだが、1000Mくらいまで車で上るので歩くのはなだらかな道を40分である。
上り下りと山頂での休憩をいれて1時間半、コンビニで買った握り飯を食べるにも早すぎて、桜の里まで下りて食べた。
日陰の道に雪が残って思わぬ雪中行軍になって驚いた。

24日に上って報告が遅れたのは、天候の加減で遠笠山の正面の写真を撮るのに今日まで待たされたからである。
この射角を得るのに苦労した。城ヶ崎高校のグランドからである。

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2007.03.25

馬とヨットと花と-2

昭和20年代の後半から30年代にかけての、あの華道界を包んだ熱気は何だったのだろう。
当時、日本の女性はすべて華道の免許を求めて教室に通ったのではなかったか?

華道免許の本山は池坊である。室町以来の華道の家元として、国内の諸流はすべて自派の末裔であるとする。
それに対し、戦後の民主化ムードの中で家元制度に反発して各地に起こった新興いけばなの雄が勅使河原蒼風の草月流であった。
昭和30年当時、池坊200万、小原流100万、草月流70万と言われたが、成長率では草月流が群を抜いていた。
蒼風は「池坊は45代、小原流は3代にくらべ草月はまだ1代だ。わしの時代で追いつき、追い越してやる」と豪語した。
その活動は次第に国際化し、フランスの芸術文化勲章、レジョンドヌール勲章の受章、ニューヨーク「20世紀博・世界の彫刻家20人展」に招待出品するまでに至る。
そして東京青山に壮大な草月会館を建設し、反発したはずの家元制度の確立を進める。
その中心に据わるべきが娘の勅使河原霞であった。
まだ20代になったばかり、その美貌とあわせまさに社交界の華であった。

あろうことかその霞が家を出たのである。1956年(昭31)のことである。
「草月を継ぐことを放棄してでも、あの人と一緒になります。」
霞24才。武田陽信34才。武田には妻と2児があった。

武田は海軍の情報将校を経て商社に勤務していた。
身長180センチ、空手・剣道・柔道など計6段の偉丈夫であったという。
日頃女性に囲まれた男性しか見ていなかった霞には強烈な魅力だったのだろう。
裏千家3男との縁談が進んでいた中を、霞は武田のもとに奔った。

「許さない」と怒った蒼風も、結局は折れ、のちに霞の草月への復帰を乞う。
武田は独立して繊維・雑貨の商社を起こし、草月流の品物を扱うようになり、また草月流の経理の責任者となる。
そして1969年12月、シドニー・ホバートレースに参戦したのであった。

1970年1月、草月会館および全国27ヶ所を200人の国税局査察官が襲った。
巨額の脱税疑惑である。
蒼風は霞に言ったという。「霞、お前にまで苦労をかけたね。」「いいえ、お父さま。」「・・・これで終わりか。」「そんなことをおっしゃらないで下さい。」「・・・でも芸術院会員になるのは、もうおしまいだね。」かっての前衛いけばなのリーダーがこう言ったという。
武田陽信は経理の責任者として、一切の責任は自分にあると主張したが、巨大な家元組織には武田の知らない金がいくらでもあるのであった。
<このあたりの華道界に関する記述は「華日記-昭和生け花戦国史」(早坂暁-小学館文庫)による。幸いまだ入手可能である。>
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<武田陽信のシドニー・ホバート挑戦については他に情報がない。「舵誌」の記事がないかと国会図書館に検索したが「舵誌」の保存はなかった。>

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いけばな革新の運動は戦前に発する。
「日本新興いけばな協会」の設立を目指して6人が集まった。重森三玲、藤井好文(評論家)、中山文甫(未生流)、桑原宗慶、柳本重甫、勅使河原蒼風である。1933年、重森三玲が「新興いけばな宣言」を起草する。「懐古的感情を斥ける」「形式的固定を斥ける」「道義的観念を斥ける」など家元制度からの解放を目指すものであった。この中に33才の蒼風がいた。
結局協会は設立されずに終わった。
<いけばな革新運動については労作「前衛いけばなの時代」(三頭谷鷹史-美学出版)に詳しい。>
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日本美術学校を出て画家、華人を目指した重森三玲はその後日本庭園の美に魅せられる。庭園が各地で荒廃し散逸していくのを惜しみ、独学で学んで全国の庭園を測量してまわる。その数300に及ぶ。1939年、「日本庭園史図鑑」(26巻、有光社)を出す。
アカデミズムの世界にない彼がこの作業を行い、書物として刊行するのにどれほどの困難を極めたか。
その後彼は作庭家として名をなし、測量した庭も500として1976年「日本庭園史大系」35巻を刊行する。
私は重森三玲の庭園測量の業績を文化勲章に価すると評価するものである。

~~~~~~
「テヴィス・カップ・ライド」に挑戦した蓮見清一の物語を読んで、私の想念は「シドニー・ホバートレース」「武田陽信」「勅使河原霞」「勅使河原蒼風」「重森三玲」と飛んだのであった。
「アラビアンホースに乗って」(蓮見明美)はそんな飛翔をいざなってくれた。

2007.03.23

馬とヨットと花と

「アラビアンホースに乗って」(蓮見明美著、洋泉社、04/6刊)という本を読んだ。
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60才を目前にした、それまで馬に触ったことも乗ったこともない男がたまたま米国の長距離耐久乗馬レースをTVで見て、「わが人生で為すべきことはこれだ!」と一念発起し、一から乗馬の訓練を始め、あらゆる艱難を克服してその翌年に米国で最も過酷なエンデュランス・ライドと言われる「テヴィス・カップ・ライド」を完走した物語である。ちなみにこの時の完走率は49%だったという。

耐久馬レースはエンデュランス・ライドと呼ばれ、スピードよりも、人も馬も障害なく完走することを第一義とする。
「テヴィス・カップ・ライド」の正式名称は「ウエスタン・ステイツ・ワンハンドレッド・マイルズ・ワンデイ・ライド」であり、その名の通りシエラネバダ山中の100マイルを24時間以内に走り切らねばならない。人か馬かヘリコプターしか近寄れない峻険な山道を頑健で俊敏なアラビアンホースに乗って文字通り踏破するのだ。標高1500-2700メーターの土地を上り合計で5000メートル、下り合計で7000メートルを走る。夜は漆黒の闇である。
詳細はここをご覧あれ。アラビアン・ホース・ランチ

スタート地点に立つことすら難しいと言われるこのライドに挑戦し、見事完走した男は蓮見清一という。出版社宝島社の社長である。
そしてライドそのもの以外はすべて行を共にし、このリポートをまとめたのは蓮見清一の妻蓮見明美である。

実はこの本、某氏から恵送を受けたのだが私が読むより先に妻が読み、私が読んだらすぐに自分の友達に鳴り物入りで貸してしまった。それほど面白かったのだ。
おかげで私が感想を書こうにも原典が手元にない。

私は読後の感想を書くにあたり、この物語を何に比すべきかを考えた。
私が知るのはヨットの世界である。「テヴィス・カップ」に比すべきヨットレースがあるだろうか?
この耐久レースは競馬場のパドックを走るのでも馬場馬術でもない。原野を走り抜ける。
となればインショア・レースではあり得ない。オフショア・レースである。
国内のレースでオフショア・レースは何か?鳥羽パールの名が上がるかもしれないが、これは沿岸コースで本格的にオフショアとは言い難い。
八丈とか小笠原、沖縄レースということになろうが、実はどのレースも参加艇不足でこのところ成立していない。
それと、実施海域の条件がそれほど厳しいというものではない。テヴィス・カップのコースは厳しさを求めて設定されている。
勿論ヨットレースは気象条件によってどれほどにも厳しくなるが、コースそのものが厳しい海域とは言えない。

国外に眼を転じて、どんなレースがあるか。
アメリカズ・カップはインショア・レースである。
アラウンド・ザ・ワールドの各レースはちょっと比較にならない別物だろう。
アドミラルズのファストネット、トランスパックのアラウンド・ジ・アイランズなどの名が浮かぶが、これらも<厳しい海域>ではない。79年のファストネットの大事故は記憶に生々しいが海域のせいとは言えない。

そうだ、シドニー・ホバートだ!
どんな解説にも<荒れるシドニ・ホバートレース><咆える40度線>の形容詞が先に立つ。
シドニーを出てタスマニアのホバートに至る630マイルのコースである。毎年クリスマスの日にスタートし、大晦日前にゴールする。
このレースの厳しさはヨット乗りの知るところだ。多くの場合完走率は50%という。
オーストラリア人はこのレースに生命を燃やす。

テヴィス・カップへの挑戦は、シドニー・ホバートへの挑戦に比すべきではないか?
シドニー・ホバートレースに挑んだ日本人はいるのか?
私の頭に<武田陽信>の名が浮かんだ。微かな記憶である。たしか武田陽信という男が参戦したはずだ。
やっと日本セーリング連盟の「JYAとNORCの歩み」のページに、ただ1行の記述を見付けた。
「1969年:シドニーホバートレースに武田陽信氏の<バーゴ>が参加」
残念ながらこれ以上調べる手がかりがない。

武田陽信とは何者か?
勅使河原霞の夫である。
―続く―

2007.03.19

オープンガーデン浜松-2

口惜しいからうちのいいところをもっと考えた。

5.TEAS(庭でお茶とクッキーのサービス)のシステムがある
6.「庭巡りバス」と「固定料金庭巡りタクシー」のシステムがある
7.団体バスに会員のガイドが添乗するシステムがある

どれもホスピタリテイの現われだ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞

2007.03.18

オープンガーデンフォーラム in 浜松

昨日、「オープンガーデン・フォーラム in 浜松」に出席した。
浜松駅直近のフォルテホール(市民会館?)で開かれ、抽選で当たった600人で会場は一杯だった。

浜松市長が冒頭挨拶をし、静岡文化芸術大学鈴木元子教授による「イギリス花紀行」の講演、須磨佳津江氏と今年の「花いっぱいコンクール」入賞者5名によるパネルデイスカッション、「花と緑のまち・浜松」推進市民協議会の阿蘇裕矢会長(静文芸大教授)の講評などがあった。

私はこれまで「静岡に伊豆オープンガーデンあり。}と気張ってきたが、もうこれからは「静岡のオープンガーデンは浜松です。」と言うことにしよう。
浜松の花活動にはとても敵わない。伊豆とは器の大きさが違う。

違うところを列挙する。
1.人口が違う。庭の数が違う。新幹線が止まる
  浜松の人口は82万、伊東は7万5千である。
2.「花と緑のまち・浜松」の標語と、こんな会合への市長の出席
  伊東では「花と海といで湯の街」の標語がいつの間にか消えてしまった。
3.「浜松ガーデンパーク」の存在
  花博の跡がそのままガーデンパークとして維持されている。
4.「花いっぱいコンクール」「ガーデンマスター制」などの施策
5.「花と緑のまち・浜松」推進市民協議会の存在
6.地元に静岡文化芸術大学があり、静岡大学、豊橋技術科学大学、愛知大学などとも近い
7.70ページの「オープンガーデン・ガイドブック」をカラー印刷で1500部作ってくれる経済力

せめて伊豆の勝っているところを考えてみた。
1.地形が起伏に富み、海が見える
2.東京からの距離はこちらの方が近い
3.わりに広い庭が多い
4.少し歴史が古い
こんなところか。

ないものねだりはやめて、出来ることを真似するとしようか。
推進協議会とか、花のコンクールとか。
またまた疲れることだけど。

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2007.03.16

ボートショーに行った

ジャパン・ボートショー2007に行った。今年から横浜みなとみらい地区での開催に変わった。
横浜そごうの裏手から出ているシーバスに乗って海から会場に入った。
ボートショーは昭和37年に始まり今年で46回目だそうだ。
そのうち35回は通っているだろう。
もう自分のヨットを選ぶ夢もなくなり、マリーナの経営者であることも引退してしまって、気合は入らないのだが、それでも通う。
行けば知った顔に会うのが嬉しい。
ボートショーの昨年の入場者は3万7千人だったそうだ。
今年は5万人目標という。横浜市港湾局が力を入れているからこれからが楽しみだ。
なお先月後楽園ドームであったラン展は20万人以上の入りだという。
マリンは狭い世界だ。

S君に会った。
彼は出光タンカーの船長をしていたのを、出光三河みとマリーナのハーバーマスターに譲り受けたのだ。
彼の熊本の実家にまで口説きに行ったことを思い出す。
その後彼の仕事人生も紆余曲折があったようだが、立派なマリーナのプロになって今は広島にいる。
会えて嬉しかった。

I君に会った。
彼は今ベネトウを関西で売っている。
かって出光マリーナの客にスワンを売り、一緒にフィンランドに行った仲だ。
元気な顔を見てしばらく話し込んだ。

しかしいろいろ会うが、みんな年下の友人ばかりだ。私と同年輩以上の顔見知りには殆ど会わない。
これは淋しい。

1本のフロートに両ひれが出ていて、フロートの上に立ってハンドルを漕いで推進する妙な乗り物を見かけた。
近くに立っている男性が作ったのだそうだ。「あなた1人で考えたのか?」と聞いたら、「堀内先生の指導を受けた。」という。
「堀内先生って、あの亡くなった?」と思わず言ったら、何やら目配せして私の後ろを指差す。
なんと堀内浩太郎氏がそこに立っていた。幸い先生には聞こえなかったようだ。
堀内氏はローマオリンピック、東京オリンピックのボートの監督だった。「調和漕法」で一世を風靡した。
その後ヤマハに移りマリン事業部長として君臨した。彼の開発したフィロソフィー45というヨットはあまりに斬新なコンセプトで遂に売れなかった。
そのご本人が横顔を見せて立っていた。とてもとても83才には見えなかった。

ボートショーへのアプローチは華やかさに欠けた。
ヤマハもトヨタもニッサンも、ブースに迫力がなかった。
みんな初めての会場で様子が掴めなかったのだろう。許してやろう。
屋内展示から食堂に寄って海上展示場に行ったが、案内不十分で無駄足を踏んだ。
これも許してやろう。
来年から頑張ってくれよ。

あれこれ嬉しくて、シナコバのシャツを50%OFFで、ヘリーハンセンのデッキシューズを40%OFFで買った。

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2007.03.14

伊豆オープンガーデン巡回バスの準備

伊豆オープンガーデン巡回バスの準備を進めている。
昨年延べ11台出したバスを今年は16台の予定である。
個人の庭なので大型は入れず、20人乗りのマイクロバスである。

コース設定は神経を使う大変な作業だ。
・マイクロバス進入可、駐車可
・TEAS庭を昼ごろに組み込む(20人が雨でもTEAS出来る庭は限られる)
・途中トイレ場所の組み込み
・複数のバスがかち合わないように
・各庭に公平に巡るように(お客さんはいい庭ばかり見たがる)

東海バス側も大変だ。
・車両の確保(マイクロバスは4台しかない)
・運転手の確保(ピーク時の4月20-23日はフジサンケイゴルフとかち合う)
・予約受付、当日受付体制
・PR活動
・5月ゴールデンウイーク中は道路混雑で運行できない(庭側もやりたくない)

幹事と東海バスで一応予定はたてた。
これから各庭を集めて実際の準備を始める。
各バスに乗って説明するガイド役も確保しなければならない。
これから巡回バス以外の団体訪問も出てくるだろう。

追記
ご心配をかけた「お庭案内」の印刷は完了した。
ネットで見つけた新橋の印刷屋が安くカラー印刷してくれて助かった。
ホチキス留めも済ませて完成したが、今年は「伊豆高原散歩MAP」が遅れている。

添付写真は昨年の雨中の巡回風景である。
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2007.03.07

妻の一日

昨日、私は一日外出していた。

妻は10時に家を出た。
まず近所の稲荷寿司屋に寄ってお稲荷さんを買った。友達の家に行って一緒にお昼を食べる約束である。
この稲荷屋、カンポホテルから海洋公園に下りる道すがらに出来た屋台である。別荘用地の一角に10㎡以下のキットハウスを建てた。
旧市街で豆腐屋をしているそうだが、なんでまたこんなところに屋台店を?、である。
妻はここのおかみと昵懇だ。

お稲荷さんをぶら下げて歩いていたらおば(あ?)さんに声をかけられた。
「その稲荷寿司、おいしいですか?」
旨いとも言えず、不味いともいえず、妻は「月に1度くらいは買いますよ。」と答えたそうだ。

それから菓子屋に寄った。
千葉の娘と孫の1人がインフルエンザB型にかかったとかで、そのお見舞いである。干物と一緒に送るつもりだ。
この話、実は伏線があって、せんだって近くで拾った夏蜜柑が沢山溜まったので送ったら、「お菓子の1つも入れてくれたらいいのに」と文句を言われたのだ。それで今回は手作りのマーマレードと、菓子と、干物を送った。
そして歩きながら「干物を送るよ」とメールしたらすぐに、「熱があって食べたくないから干物は要らない」と返信があった。
妻はいたく傷ついた。「私はこんな娘を育てたのだろうか」と私が帰ってからまで嘆く。

そのうちに「稲荷は旨いか?」と聞いた人が追いついてきた。
名前は馬田さんといって、ついこの先だそうだ。「寄っていきませんか」と言われて妻は付いて行った。
しかしつい先がとんだ先で、参ったそうだ。
クヌギや小楢をそのまま活かした素敵な庭で、「あなたも行ってみるといいよ」と言う。
ご主人は建築設計家の由。

やっと目的の牛田さん宅に着いた。
ドールガーデンでの同僚である。今はリゾートヴィラにパートに行ったり、月に1、2回占いの勉強に東京に通ったり、面白いおばさんだ。
一緒に稲荷寿司を食べながらドールガーデン時代の仲間の話やご近所の噂話に花が咲く。
仲間の中心だった猫田さんがお店を売り払ってマンションに移るなんて話も聞いてきた。
自分は何をしゃべったのやら。

牛田さんが「街に出て靴を買う」と言うので一緒に出る。ここで「街」とは伊豆高原駅のことだ。
妻も付き合って普段靴を買う。

別れて帰途につくが、途中でまた引っかかった。銀工房の鷲田さんだ。
同じ体験工房同士で、このところ銀細工を頼んだりして近しい。
40分もしゃべったそうだ。

帰宅したら15時過ぎだったそうだ。
妻とロビーの幸せな一日であった。

2007.03.05

ホームページの移管

最近書いたものを見るとどれも愚痴っぽい。
人を楽しくしない話ばかりだ。

過労なのかもしれない。
ちょっとガーデニングクラブ関係の雑事が多すぎる。

そういうことが予想されたので、実は昨年末からIGCのホームページ制作担当を代わってもらう準備を進めている。
思い切ってサーバーも替えて、独自ドメインもとって、面目一新する。
新しく担当してもらうNさんは私より7つ8つ若い。
さすがにいろいろと新機軸を出してくれる。

とにかくメンバーや庭が入れ替わり、諸資料を更新しなければならないこの時期が1年で一番大変な時期だが、
年寄りが忙しがってもしようがないじゃないか。
気楽に行こう。

下請けNPO法人

東京都のオリンピック招致活動の組織をNPO法人とするそうだ。
財団法人との違いとか得失とか、私には判らない。

伊豆オープンガーデンのNPO化についてかって考えたことはある。
特に庭巡りバスを自分たちでマイクロバスをチャーターして運行している時には強く必要を感じた。
<クラブの名前でバスを契約したい><振込みを受ける銀行口座を持ちたい><保険契約>などである。

しかし東海バスが営業活動として庭巡りバスの運行を始めてから、すっかり熱は冷めた。
儲けもリスクもすべて東海バスマターである、我々に関係ない、となったらどうでもよくなった。
いかにバスの運行に神経を使っていたかが判る。

時々「NPO化は考えないのか?」との質問を受ける。
「考えていない。」と答える。

だいたい「NPO」を言うのは資本なしに金儲けしようと考える人間か、役所仕事の下請けを考えている人間である。
あんまりまともでない連中が多い。
そうか、東京オリンピック招致NPOは役所仕事の下請けだ。

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