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2006.07.31

雑草の名前

「雑草という名前の草はない。すべて名前がある。」と昭和天皇は言われたそうだ。
さっぱり草の名前の判らない私は、いつもこの言葉を噛みしめながら雑草を抜いている。

昨今、靖国神社にA級戦犯が合祀されている問題に関しての昭和天皇の発言メモが公開された。
一部の論客はこれについて、「平和天皇を印象付けるために敢えて作成されたメモだ。」と広言している。
この面々は「雑草の名前」発言も、「自然を愛する天皇のイメージ作りのために作成されたものだ。」というのであろうか?

戦前・戦中はいざ知らず、昭和天皇とは戦後40年の付き合いである。
わけの判らぬ近参者の牽強付会より、長年の付合いの昭和天皇の方を信頼する。

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2006.07.30

草抜きは飯に似ている

暑くなるまえにと、このところ庭仕事に追われている。
樹木・生垣の剪定などから草抜きに移った。

草はいくら抜いてもキリがないが、抜けば抜いただけきれいになるのが癪だ。

草はいくら抜いてもまた生えてくる。
飯はいくら食ってもまた腹が減る。
草抜きは飯に似ている。

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2006.07.28

米国産牛肉の売り方-狂牛病発症保険

大手スーパーが米国産牛肉を売るかどうか悩んでいるらしい。

なに、<シニア向け>として売ればいいんだ。ネーミングは早い者勝ち。
狂牛病は15年か20年後に発症するらしいから、年寄りは構わずに買うよ。

それとね、保険会社と組んで<狂牛病発症保険>を付けるといい。
<発症したら50万円>くらいの保険料は広告代とチャラだね。
当たるよ。売れるよ。

アメリカの保険会社は乗ってくるかな?
アリコはどうかな?

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2006.07.26

現世利益

わが国の神社仏閣というか宗教施設は庶民の悩みに対してそれぞれ得意の救済分野を持ち、そのための祈祷をしたりお札を販売したりして収益を図っている。
すべての施設はすべての分野にご利益があるのではない。過去にその分野でそれなりの努力をし、それなりの実績を現したから大方の信仰を集めているのである。
悩みを列挙すれば次の如し。
家内安全.無病息災.延命祈願.病気平癒.交通安全.合格祈願.学業成就.子宝祈願.安産祈願.縁結び.夫婦和合.五穀豊穣.豊作祈願.豊漁祈願.商売繁盛.出世開運.厄除け.失業除け.招福.必勝祈願.・・・・

これだけ並ぶと人間の悩みのすべてが揃っているように見える。
しかし、ちょっと待て。
現代の日本人の最大の悩みは何であるか?ずばり、肥満対策であろう。痩身願望であろう。
健康のためにも、縁結びにも、出世開運にも、肥満対策こそが最大多数の最大願望であるに違いない。

されば何故<痩せます>神様が現れないのか。<痩せます>お札が発売されないのか。
どの神様もこの分野でまだ著効あるオマジナイを見出し得ていないのであろう。

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話は変わる。

私の体重は82キロある。当然の減量願望がある。
3ヶ月前から紫蘇葉入り黒酢をウイスキーの水割りに入れて飲んでいる。(酢の量はハーフフィンガー、1杯のみ)
TVで肥満タレントが飲むだけで10キロも痩せてみせたので真似している。

さらにストローの端を半分閉じて口で吹くのも10日前に始めた。
TVではこれで5キロ痩せた。
たまたま娘(40才)のところに行ったらストロープープーをやっているではないか。
アハハと笑ったら、マンション中みんなやっているよと言った。大きなマンションである。

そして昨日、私の体重は77キロであった。
(実際に効果を挙げたのは庭仕事で汗を絞ったためと思うが。)

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先見の明ある神さん仏さんよ、ご利益の項目に「減量祈願」を加えなさい。
そしてお守りに「先閉じストロー」を付けなさい。それらしい袋に入れてね。
弥勒菩薩とか百済観音とか痩せた仏像を飾ったらもっといい。
ご利益あること間違いなし。

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2006.07.24

東芝商法?

東芝の電気炊飯器がおかしくなった。
取説によれば内臓時計の電池が切れたらしい。そして販売店に持って行けと書いてある。
NOJIMAという量販店に持っていった。

そこで入替えてくれると思ったら、メーカー(東芝)に送るという。
電池交換に大袈裟なと思ったが、まあ仕方がない。
修理の保証金に2000円預かるというから渡した。

10日後電話があり、東芝から修理代1万2000円と言ってきたという。
ちょっと待ってよ、どんな修理か。予約タイマー以外は故障なく飯は炊けていたのだ。
修理は保留した。新品を見に行ったら6000円からある。結局東芝の15000円のを注文した。

保証金2000円を返してくれと言ったら、修理の見積り料として頂くという。
何?
NOJIMAがとるのではなく、東芝がとるのだという。
ふざけるな、今時見積もりに料金をとる会社がどこにある。だいたい電池交換をメーカーまで送らせる設計がおかしい。
喚いていると、うち(NOJIMA)がとるのではないと言うから、その通り、東芝を出せと言った。
NOJIMAの担当者が何人か代わり、どこぞに電話してごそごそ話していたが、「今回はメーカーが負担するそうです。しかしそういう決まりになっているので、今後ご了承下さい。」と言った。
私は「今後も了承しない。」と喚いた。

こういう決まりはきっと電気メーカー同士談合して同じ決まりにしているに違いない。
諸兄よ、大いに喚いて談合をやめさせようではないか。

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2006.07.23

日本沈没

映画「日本沈没」を観た。日比谷の有楽座で観た。
はて、あそこは日比谷なのか、有楽町なのか、数寄屋橋なのか?

日本列島の沈没は1年以内に迫る。
総理大臣は中国に避難民の受入れを要請しに行く途中、阿蘇山の噴火で爆散する。
次いだ臨時総理大臣はアメリカに頼みに行くといって帰ってこない。
緊急対策大臣(大地真央)が指揮にあたる。

避難民は溢れ、世界中の船を集め世界の国に送り出す。
1億人をどこに送れるのか。沈没する国の避難民の受入れにどんな見返りがあるのか。
地底のプレートに爆薬を仕掛け、プレートを破断する作戦を開始する。
世界中の深海作業船が集まり、爆薬を設置する。

爆薬点火の作業に生還はない。
主人公(草彅剛)が1人出かける。
プレート破断は成功し、日本列島は沈没を免れる。

大地大臣がマイクをとり、国民に向け、そして世界に向けて声明を発する。
日本沈没は免れた。
直ちに復興にとりかかろう。
生命を賭して破断を成功させた勇士に感謝する。

どうだろう。ここに避難民を受け入れてくれた国、深海作業に協力してくれた国への謝辞はないのである。
これではこの国はいずれ沈没する。

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2006.07.19

O、Nはいつまで生きるのか

98年のイベントの写真が必要になってアルバムを開いたがない。
ふむ、これはデジカメで撮ってプリントしなかったのだなとパソコンを開いた。
この頃使っていたのはSOTECのe-oneである。
写真はあることはあった。しかしそれからが大変だった。

e-oneには3.5FDとCD(読み込み専用)しか付いていないので、3.5FDにコピーした。
その次に使った機種はNECのノート。現在はDellのデスクトップ。
Dell機にはもう3.5FDはない。従って一旦NECを経由しないとDell機に読み込めない。
NECで直接利用するには、今回利用目的のネット環境がない。
というわけで面倒なことであった。

e-oneの前は、といえばMacである。
その前はPC2001.
その前はワープロ。
Mac以前のデータは一応3.5FDに入ってはいるが、これを読み出すことは永久にないであろう。
たとえまたMacを入れたとしても、既にOSが違うのだ。
デジタルの記録は永久保存などというのは全くの嘘っぱちである。
せいぜい5、6年の感覚だな。

Oさんが退院したら、早速いつ現場復帰かと騒いでいる。
Nさんはまたなんたらの監督がやりたいのだと。

よしてくれよ。いつまで生きるつもりか。
機械より長保ちしてはいけない。

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2006.07.17

黒潮丸の全国オープンガーデン情報

現在、わが国にも幾つかのオープンガーデンのグループが出来ている。そしてそれぞれにホームページを持って同じような活動をしているが、横の繋がりはまったくないように思う。
2001年3月に東京農大に8グループほど集まったことがあるが、そのままになってしまった。グループそれぞれに、それぞれの問題を抱えていたからでもあろう。

しかし何か繋がりが欲しい、繋がりがあってもいいのではないかと思い、新しいブログの作成を志した。

掲示板とか固定サイトとかいろいろ考えたが、とりあえずこの形とした。
「黒潮丸の全国オープンガーデン情報」

いずれ良い方に発展することを願う。

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2006.07.13

伊豆ガーデニングクラブと行政

近くの自治体の外郭団体の会長さんが訪ねてきた。
伊豆ガーデニングクラブ及び伊豆オープンガーデンについてはホームページでよく調べて来たらしい。
そして次の質問をした。
1.発足の経緯
2.現在の財政状態
3.行政の援助
4.今後の目標
5.NPO化についてどう考えるか

答えたことは、
ア.発足後5年くらいは毎年赤字決算で、有志の寄付で息をついていた。
イ.現在は余り使わないので裕福である。花の苗フリーマーケットの出店料とか、オープンガーデン巡りのバスから若干の手数料をクラブにもらうなど、稼ぐことも覚えた。
イ.行政の援助はオープンガーデンの「お庭案内」の印刷400部のみである。(市の印刷機で印刷してもらう。製作と製本はクラブでやっている。)他に援助を依頼したことはない。
ウ.今後の目標は特にない。活動の継続と、若いリーダーが出てきてくれることを望んでいる。
エ.わがクラブの会則には事業目的がなく総会の規定もない。NPO化する理由はない。

訪ねて来た人は、行政との関わりや行政の援助を聞きたかったようで、当クラブがあまりそちら方面に関心がないのでがっかりしていたようだ。
(私はNPOとは行政が市民団体を利用する際の必要条件だと邪推している。)


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2006.07.10

100年前のオープンガーデン

先日横浜三渓園に行ったところ、開園100周年の記念カタログを発行していたので購入した。
巻末の資料編に出ていた往復文書をご紹介する。
オープンガーデンをしている者にはとても面白い。

寄稿者の前田曙山は当時の大衆作家で、庭園批評もしていた人らしい。前田は三渓園が一般公開されていると知って驚いている。
対する原三渓は園主であり、生糸貿易で当時神奈川県の最多額納税者であった。趣味人として茶器書画の蒐集でも名高い。


~~~~~~
三渓園の設計について   前田曙山
【横浜貿易新報】明治43年3月7日
本牧の三渓園は、富豪原氏の別墅としてかつ又横浜唯一の庭園として有名である。予は園芸上参考の資料として一度参観の栄に浴さんとして果たさざりしに、偶ま畏友富田君が文筆の士を此処に招くに陪して、去る2日初めて宿志を果たすを得た。夫で聊か園内を瞥見して感じた所のものを以って愚意を述べるのは、冀はくは園主が庭園を公開するの意に副い、更に富田君が客を迎ふるの好意に酬ゆる所以であろうと信じる。
凡そ庭園の設計を批評するには、設計図を一見し、設計者の説明に聴き、園主の嗜好をも知らなければならぬ。然るに予は全然此の三者を欠いて居る。殊に四季を通じて園内の風致を見た後でなければ、一言隻句を加える事が出来ぬ筈である。然に予は春三月、梅花爛開の時に只一度見しを言うに過ぎぬから、批評眼を縦って之を見ることは出来ぬ。只通りすがりの管見として所感を陳るに過ぎぬのは、三渓園に対して敬意を表するの途で無いかも知れないが、然し陸目八目の譬え、或るひは他山の石たらずとも限るまいと、聊か盲蛇の自信を促かすを恕せよ。
-略-
(・・・予は)三渓園を以って、公開の庭園ではないと思って居たので有る。只原氏の別墅として、園主が逍遥の閑庭で、雲賓深く韜まるる所の禁苑とのみ信じて居たのに、豈図らんや、縦覧御随意の公開地ならんとは。
凡そ我邦の富豪素封家と称すべき人々が巨大な園囿を有して居る。然し能く海の如き度量を以って、自己の庭園を公開する者ありや、恐らくは否と答ふるの外は無い。勿論俗人の雑踏、園内の掃除の煩、樹木損傷の害等、公徳心の乏しい参観人が来るので有るから、已むなく閉鎖するといふ一大理由があらうけれども、要するに自分の物は自分丈で楽しむといふ個人主義が跋扈するので、又勢い夫に傾き易きに拘わらず園主が敢えて公開する所以のものは、衆と共に楽しむといふ、極めて崇高なる観念を実現したのを見て、其人格の偉なるを認める。
予は常に園芸に関する予の著書に於いて、花卉は独占すべき者ではない、娯楽としても、科学としても、必ず衆と共に見るべきもので有ると、再三ならず唱道するけれども、之を事実に於いて用いる人はいない。其之あるは実に三渓園あるのみ。
(この後、庭の各部分についての指摘が続く)-略-


~~~~~~
前田曙山君に謝す   原三渓
【横浜貿易新報】明治43年3月15日
去る五日より十日に亘りて横浜貿易新報紙上に連載されたる前田君が「三渓園の設計に就て」の一文は君の該博なる識見に因て築庭上最も尊敬すべき批評を下されたるものにして僻遠の山荘此の貴ぶ可き批評の料となるを得たるは当に園主の喜とする所のみならず山霊も亦当に髣髴として君の案上に向て感謝するなる可し、余は今夜君の全文を再読して興懐自から禁ずる能はず三更燭を燃して柄になき筆硯三昧御笑いの程も顧みざるものは天下未見の知己に報ゆる奔馬の情止め難きが故と御察披下度候
-略-
・・・申す迄もなく天の領域たる自然の風景を利用して其の大部分を構成したるものなれば此れを公開するは寧しろ当然の義務にして然らざれば天の領域を盗賊すると異なる所なかる可し、されば世上の個人的な庭園が-略-此れに因て直に個人性の襟度の広狭迄をも高下せんと試むるは漁者が鳥の山に栖むを譏ると択ふ所なからん幸に広き側に廻されたる余の得意は去ることながら斯くては一般の庭園に対して甚だ同情に忍びざる点もあれば聊か本来の相違に就て茲に一言して君の一顧を請う所以に候
園の設計に就ては大小となく褒貶共に余の責任に属す従て世上識者の批評を聞て其欠点を補足せんことを望むの情切なれども不幸にして未だ其責任ある批評を聞くを得ざりしが今や初めて空谷跫音に接したるの心地致候、君の批評は金玉燦然として適切に園の欠点を指導せられたるのみならず其驚く可き豊富なる植物上の学殖は此を請ふて未知の植物を採集し春の雨秋の露に其紅紫を泣かしむるを得ば山荘の清興長へに尽くる時なからん、-略-
茲に余は不日簡を折して君に望む所あらんとす君願くは半日の清閑を分ち林下相携へて遍遷として暗香不動の裡君の清想を語るを聞かん君幸に之を諒せられんことを 不宣

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2006.07.08

「日本の庭」立原正秋を読む2

「日本の庭」(立原正秋)を読んだ。

読んで、私の心に強く響いたのは立原の<夢窓疎石>についての項と、<龍安寺の庭>についての項である。
それはあまりに私の琴線に触れるものであったから、この書を以前に読んだことがあるような既視感に捉われたほどであった。
しかし76年(昭和51年)の1月から10月まで「芸術新潮」に連載され、77年4月に刊行された本書を過去に読んだはずはなかった。

夢窓疎石は全国に数多くの庭を、中でも京都・西芳寺、天龍寺の作庭を残した作庭家・高僧として名高い。
疎石の足取りを辿ってみよう。
1275年伊勢に生れる。4才一家甲斐へ。18才東大寺にて受戒(密教系)。20才禅門に志し建仁寺に参じる。夢窓疎石を名乗る。21才鎌倉東勝寺、建長寺で修行。22才円覚寺で修行。23才京都建仁寺へ。25才鎌倉建長寺へ。26才那須雲巌寺。28才円覚寺へ。29-30才陸奥、常陸に庵を結ぶ。31才甲斐に浄居寺を開く。33才雲巌寺。35才甲斐に戻る。39才美濃に虎渓山永保寺を開く。43才上洛し洛北に寓居。44才土佐に吸江庵を結ぶ。45才三浦に泊船庵を建て閑居。48才上総に退耕庵を建て閑居。51才京都南禅寺に入寺。53才鎌倉浄智寺に入寺。瑞泉寺を開く。55才円覚寺へ。56才甲斐に帰郷恵林寺を開く。59才鎌倉幕府滅亡。後醍醐帝隠岐から脱出。後醍醐帝に請われ上洛、臨川寺開山となる。60才南禅寺に再住。後醍醐帝より国師号を賜る。62才南禅寺を退き臨川寺に戻る。南北朝対立始まる。65才西芳寺中興開山となる。後醍醐帝崩御。67才暦応寺(のちの天龍寺)住持となる。68才「夢中問答」発刊。77才死去。

どうであろうかこの遍歴は。
時はまさに鎌倉幕府滅亡、南北朝対立、室町幕府成立の天下動乱の時代であった。
疎石の前半生には権力から離れよう、逃げようの姿勢がうかがわれるが、禅僧として名声が上がるとともに政治の中枢に取り込まれていく。

立原は書く。
~~~~~~
どこから書き始めようか。
-略-
疎石の<夢中問答>がなったのは疎石68才のことであった。彼はその数年前に天龍寺を開山している。この文章には建武中興を境にしての彼の苦衷が読み取れる。かっては後醍醐帝の厚い帰依を受け、やがて足利尊氏に追い詰められた帝が吉野で生涯を閉じると、今度は尊氏が帝を弔うために天龍寺を開山し、疎石は尊氏兄弟と手を結ぶ。疎石が苦衷なくして天龍寺開山に座ったとは思えない。

当時の仏教教団はどうであったか。前にも述べたように秀れた僧が数多く出た時代であった。浄土門あり、曹洞門あり、日蓮門あり、同じ臨済門に大燈あり、といった状況であった。
かって叡山が権力と結びついたように疎石もまた時の権力と手を組まねばならなかった。
そこには理想と現実との相克があった。後生の思想家が疎石をよしとしないのはこの点である。

しかしやがて五山文化が確立され、それにつれて数々の中世文化が花ひらき、世阿弥が能を大成し、珠光にはじまり宗易によって完成される侘茶がうまれるのは、屈折の多かった一人の禅僧疎石と権力との結びつきがあったからに他ならない。
-略-
たしかに道元という不世出の禅僧がいた。彼は、禅僧が詩文と造型芸術に足を踏み入れるのを厳に戒めた。したがって五山時代を転落だとみるものもいる。しかし五山時代なくして中世文化が生れなかったことを思えば、詩文をよくし、その生涯に振幅のはげしかったひとりの禅僧もまた一方の星であった、と看做さねばならない。
-略-
ところで「山水をこのむは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とももうしがたし」という言葉は、足利兄弟と結びついた禅僧としての自己弁護ともきこえるし、自己を突き放した言葉にも受け取れる。これは時勢に応じた政治的な言葉である。かっては鎌倉幕府から逃れて名利を求めなかった山居生活者が、何故このようになったのか、とも思う。
しかし「山水には得失なし、得失は人の心にあり」という言葉はやはり胸を打つ。ここには禅僧として道元のように一直線に歩めなかった者の苦い反省がこめられている。
もう昔日のように、各地に庵を結ぶ身分にはなれない、とすれば、作った庭に思いを鎮めることで救われていた、とみるべきだろう。
今日、疎石作と断定できる庭はひとつもない。すべては伝疎石作である。それでよいのだと思う。
~~~~~~

先に「夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧」(枡野俊明 NHKブックス)の読後感をこのブログに記したことがある。
私は枡野の記述を全面的には受け入れられず、そのことを書いた。
「夢窓疎石」を読む


龍安寺の石庭について、立原は禅との相関性を否定する。実際に庭を手がけたのは山水河原者と呼ばれる職人たちであり、龍安寺の庭が美しいとしたら、それは石の1点の位置を決めた職人の美意識だという。
曹洞宗の庭、浄土宗の庭にも枯山水はあるではないか。

立原は龍安寺の庭についてこのように精神性を言い出したのは、大正13年志賀直哉が発表した一文「龍安寺の庭」以来だという。そしてその全文を引用する。
ここへの引用は省略するが、志賀への批判は厳しい。
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志賀の一文が出るまで、枯山水と禅を結びつけた論はなかった。それまで日本人にとって庭は「風流」の対象であった。風流は荒びである。志賀以後の多くの論者は、志賀の恣意的な趣味判断を鵜呑みにして、そこから自分に都合のよい骨組みをつくりあげ、それに整合するように論を展開したにすぎない。すべて空論であった。
志賀が龍安寺の庭について書いた文章を、一種の純粋直感とみてもよいが、しかし経験的直感の基礎にはなり得ない内容である。私が志賀の美意識に限界を見るのはこの点である。
-略-
その趣味判断は感情判断にすぎず、瞭らかに観の感覚の不完全を視ることができる。志賀以後じつにたくさんの人達が枯山水と禅の相関関係について書いているが、それらはすべて概念のない主観的普遍性と必然性を論じてきたにすぎない。
志賀の「龍安寺の庭」は、関心のない快感性によって表出された内容である。なんの苦悩もない人間が通りすがりに見た庭である。言いかえると、他人の荒びがそう簡単に見えること自体がおかしいのである。志賀に見えたのは自分だけであった。「暗夜行路」の中で主人公が娼婦の乳をまさぐり、豊年だ、という箇所があるが、あれと同じである。これは量の問題になるが、狭い志賀の視線は無責任である。
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立原はまた久松真一(京大教授)の名著とされる「禅と美術」にかみ付く。
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つまり久松氏は「禅のもつ七つの性格」を設定し、それに整合するように庭を解釈しているわけである。この放胆な空論は志賀とは別の意味で無責任である。何故こんな通俗的な長い文章を引用したかというと、今日、殆どの人が志賀、久松氏のように枯山水をみており、知的ミーハー族、女の子、禅に興味を抱いている外国人、殊にアメリカ人あたりに恰好の説明文になっているからである。スーベニアショップ向けの内容である。
久松氏は疎石が庭を造ったと断定して「そこに禅的なもの」「禅の表現」をみているが、曖昧である。こうした論は自分だけが見えた志賀の一文よりたちが悪い。龍安寺の庭の石に「犯しがたい威厳」があるとか、苔が「幽玄という点で非常に大事な役割を演じている」とか、「誤魔化しがないだけに、見ることが難しい」とか断じている。単なる造形物にこんなに空疎な言葉をあたえてどうしようというのか。
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ほとんど立原の文章の紹介ばかりとなったが、「日本の庭」はまさに私の気持ちを代弁してくれる評論であった。

最後に立原正秋の略歴を載せておく。
~~~~~~日外アソシエーツWHOPLUS~~~~~~
両親は韓国人で、生まれた時の名前は金胤奎。5歳の時に天燈山鳳停寺の僧侶だった父を失う。
9歳の時に母が妹たちを連れて日本に渡り、叔父に預けられるが、叔父も済州島の病院に赴任したため、11歳の時に母の再婚先に引き取られるまで孤独な日々を過ごす。この幼少時の経験が後年、自伝的小説「冬のかたみに」に結実。
横須賀商在学中から文学に関心を持ち、昭和21年早大文学部国文科聴講生となり、谷崎精二教授主宰の創作研究会が応募した懸賞小説で一等に入選。
22年結婚、日本国籍を取得。薬品会社のサラリーマンや夜間警備員などを務める傍ら小説を執筆し、26年同人誌「文学者」に発表した短編「晩夏」で初めて立原正秋の筆名を用いた。31年本多秋五の知遇を得、その推挽により「近代文学」に「セールスマン津田順一」が掲載され、以後同誌などに作品を発表。芥川賞候補2回、直木賞候補1回を経て、41年「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。
以後は純文学とエンタテインメントを書き分ける流行作家として矢継ぎ早に新作を発表、「情炎」「薪能」「舞いの家」「剣と花」「冬の旅」「花のいのち」「残りの雪」など数多くの作品が映画化、ドラマ化された。この間、39年「近代文学」終刊に伴い新同人誌「犀」が創刊されると世話人に、44年には第7次「早稲田文学」編集長に就任して編集に尽力、岡松和夫、加賀乙彦、高井有一ら多くの小説家を輩出した。
55年亡くなる前に筆名の立原正秋を本名とした。
日本の美と伝統に惹かれ、世阿弥が著した「花伝書」の精神に大きな影響を受け、独自の文学世界を生みだした。能に親しんだ他、美食家、喧嘩の達人としても知られた。他の著書に「剣ケ崎」「漆の花」「鎌倉夫人」「辻が花」「あだし野」「きぬた」「幼年時代」「夢は枯野を」「その年の冬」などの他、「立原正秋全集」(全25巻,角川書店)がある。
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ちなみにわが書棚には代表作「冬のかたみに」と、高井有一による評伝「立原正秋」があった。

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2006.07.06

横浜・三崎クルーズ

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横浜への小クルーズに出た。

第1日(6/28)-曇り
前夜から「玄*」に泊まり、早朝4:30出航。
メンバーはKさんと私。
順調に航走って8時間で三崎、12時間で横浜本牧に入港した。約75マイルの航海であった。
空は高いのだが海面にガスがかかり、伊豆の山々も大島もまったく視認することがなかった。

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係留は本牧某所の旧知のヨットに抱かせてもらった。
便利で安く(あるいはタダで)泊められる場所は公開するとたちまち殺到するので、皆極秘にする。
写真を載せるがマリンタワーが写っているので、わかる人には判るかもしれない。

石川町駅近くの銭湯に行き、中華街で夕食。

第2日-曇り
Kさんとは独自行動。
午前中三渓園に行った。開園100周年であった。下村観山展をやっていた。
「三渓園100周年」のカタログを買った。資料の中に「庭園批評と三渓の庭園造成の趣旨」というのがあったから、今度オープンガーデン関連の記事で取り上げよう。
午後は横浜駅周辺を散策。

第3日-曇り
一緒に横浜ベイサイドマリーナへ行った。
目的はアウトレットでの買物。衣類7点購入。伊豆にデパートがないのでつい。

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実はYBMについて私は横浜市港湾局の企画段階から参画し、出光として1億円出資したのであった。今は昔。

午後はKさんと別れて金沢文庫の知人を訪問した。

第4日-曇り時々小雨
初めてみなとみらい線に乗り、ワールドポーターで映画「ポセイドン」を観た。
その後「神奈川歴史博物館」など。

第5日-曇り時々小雨 午後南西の強風
帰港すべく4時に出たが、アゲインストの風にスピード出ない。
来るとき4時間だった三崎まで5時間15分かかり、三崎に入港した。
昔は喧しく追われた港だが、今はマグロ産直センターの前の桟橋をプレジャーボートに開放している。1晩2500円。
午後から猛烈な南西風になり、港の中まで真っ白になる。寄港してよかった。
銭湯、マグロ丼など。
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第6日-曇り
4時出航。
強い南西風(15-18メートル)と波(波高3メートル)で厳しい。8時間で来たところを12時間もかかりそうだ。
1時間走って、また三崎に戻って退避することを決断した。
戻りかけて30分してエンジン不調に気付いた。変に息をする。そのうちに回転数が下がり、ついにエンストしてしまった。
こんな場合考えられる原因は、1)燃料切れ、2)エンジンオイル切れ、3)プロペラにロープなど異物が絡んだ、である。
1)と2)はチェックして問題ない。プロペラはこんな波の上では確認出来ない。
20分ほど流して、温度が下がったところでエンジン始動するとかかることはかかる。

低回転でだましだまし港を目指す。セーリングで入るには風が辛度かった。
その後もエンストしたが、セルモーターですぐに起動するのでなんとか三崎港まで辿り着いた。

港に着けて、早速潜ってみたがプロペラへの絡みはない。
あちこち電話で相談するが埒が明かない。原因が判らない。
三崎のヤンマーは忙しくて夕方まで来れないという。
結局「玄*」の製作者の船大工Iさんが下田から駆け付けることとなった。

Iさんが来てあちこちチェックし、燃料タンクにゴミやスラッジが溜まり、エンジンへの燃料供給を止めていることが判った。
そこでポリタンクを5缶購入し、70リットルの燃料を抜いてタンクの掃除を行った。燃料フィルターを交換した。
問題解決。
20時にエンジンは再び快調に回転し始めた。

第7日-ガスのち晴れ
4時出航。
風は西に振れ、セールで少しは受けられる。それも弱風。波はすっかりおさまって50-100センチだ。
そのうちに陽が出てきた。懐かしの伊豆の山々が見える。
待てば海路の日和あり、とはこのことだ。広沢虎造だったかの浪花節のメロデイが耳に響いた。
11時30分。下田着。

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