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2006.07.08

「日本の庭」立原正秋を読む2

「日本の庭」(立原正秋)を読んだ。

読んで、私の心に強く響いたのは立原の<夢窓疎石>についての項と、<龍安寺の庭>についての項である。
それはあまりに私の琴線に触れるものであったから、この書を以前に読んだことがあるような既視感に捉われたほどであった。
しかし76年(昭和51年)の1月から10月まで「芸術新潮」に連載され、77年4月に刊行された本書を過去に読んだはずはなかった。

夢窓疎石は全国に数多くの庭を、中でも京都・西芳寺、天龍寺の作庭を残した作庭家・高僧として名高い。
疎石の足取りを辿ってみよう。
1275年伊勢に生れる。4才一家甲斐へ。18才東大寺にて受戒(密教系)。20才禅門に志し建仁寺に参じる。夢窓疎石を名乗る。21才鎌倉東勝寺、建長寺で修行。22才円覚寺で修行。23才京都建仁寺へ。25才鎌倉建長寺へ。26才那須雲巌寺。28才円覚寺へ。29-30才陸奥、常陸に庵を結ぶ。31才甲斐に浄居寺を開く。33才雲巌寺。35才甲斐に戻る。39才美濃に虎渓山永保寺を開く。43才上洛し洛北に寓居。44才土佐に吸江庵を結ぶ。45才三浦に泊船庵を建て閑居。48才上総に退耕庵を建て閑居。51才京都南禅寺に入寺。53才鎌倉浄智寺に入寺。瑞泉寺を開く。55才円覚寺へ。56才甲斐に帰郷恵林寺を開く。59才鎌倉幕府滅亡。後醍醐帝隠岐から脱出。後醍醐帝に請われ上洛、臨川寺開山となる。60才南禅寺に再住。後醍醐帝より国師号を賜る。62才南禅寺を退き臨川寺に戻る。南北朝対立始まる。65才西芳寺中興開山となる。後醍醐帝崩御。67才暦応寺(のちの天龍寺)住持となる。68才「夢中問答」発刊。77才死去。

どうであろうかこの遍歴は。
時はまさに鎌倉幕府滅亡、南北朝対立、室町幕府成立の天下動乱の時代であった。
疎石の前半生には権力から離れよう、逃げようの姿勢がうかがわれるが、禅僧として名声が上がるとともに政治の中枢に取り込まれていく。

立原は書く。
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どこから書き始めようか。
-略-
疎石の<夢中問答>がなったのは疎石68才のことであった。彼はその数年前に天龍寺を開山している。この文章には建武中興を境にしての彼の苦衷が読み取れる。かっては後醍醐帝の厚い帰依を受け、やがて足利尊氏に追い詰められた帝が吉野で生涯を閉じると、今度は尊氏が帝を弔うために天龍寺を開山し、疎石は尊氏兄弟と手を結ぶ。疎石が苦衷なくして天龍寺開山に座ったとは思えない。

当時の仏教教団はどうであったか。前にも述べたように秀れた僧が数多く出た時代であった。浄土門あり、曹洞門あり、日蓮門あり、同じ臨済門に大燈あり、といった状況であった。
かって叡山が権力と結びついたように疎石もまた時の権力と手を組まねばならなかった。
そこには理想と現実との相克があった。後生の思想家が疎石をよしとしないのはこの点である。

しかしやがて五山文化が確立され、それにつれて数々の中世文化が花ひらき、世阿弥が能を大成し、珠光にはじまり宗易によって完成される侘茶がうまれるのは、屈折の多かった一人の禅僧疎石と権力との結びつきがあったからに他ならない。
-略-
たしかに道元という不世出の禅僧がいた。彼は、禅僧が詩文と造型芸術に足を踏み入れるのを厳に戒めた。したがって五山時代を転落だとみるものもいる。しかし五山時代なくして中世文化が生れなかったことを思えば、詩文をよくし、その生涯に振幅のはげしかったひとりの禅僧もまた一方の星であった、と看做さねばならない。
-略-
ところで「山水をこのむは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とももうしがたし」という言葉は、足利兄弟と結びついた禅僧としての自己弁護ともきこえるし、自己を突き放した言葉にも受け取れる。これは時勢に応じた政治的な言葉である。かっては鎌倉幕府から逃れて名利を求めなかった山居生活者が、何故このようになったのか、とも思う。
しかし「山水には得失なし、得失は人の心にあり」という言葉はやはり胸を打つ。ここには禅僧として道元のように一直線に歩めなかった者の苦い反省がこめられている。
もう昔日のように、各地に庵を結ぶ身分にはなれない、とすれば、作った庭に思いを鎮めることで救われていた、とみるべきだろう。
今日、疎石作と断定できる庭はひとつもない。すべては伝疎石作である。それでよいのだと思う。
~~~~~~

先に「夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧」(枡野俊明 NHKブックス)の読後感をこのブログに記したことがある。
私は枡野の記述を全面的には受け入れられず、そのことを書いた。
「夢窓疎石」を読む


龍安寺の石庭について、立原は禅との相関性を否定する。実際に庭を手がけたのは山水河原者と呼ばれる職人たちであり、龍安寺の庭が美しいとしたら、それは石の1点の位置を決めた職人の美意識だという。
曹洞宗の庭、浄土宗の庭にも枯山水はあるではないか。

立原は龍安寺の庭についてこのように精神性を言い出したのは、大正13年志賀直哉が発表した一文「龍安寺の庭」以来だという。そしてその全文を引用する。
ここへの引用は省略するが、志賀への批判は厳しい。
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志賀の一文が出るまで、枯山水と禅を結びつけた論はなかった。それまで日本人にとって庭は「風流」の対象であった。風流は荒びである。志賀以後の多くの論者は、志賀の恣意的な趣味判断を鵜呑みにして、そこから自分に都合のよい骨組みをつくりあげ、それに整合するように論を展開したにすぎない。すべて空論であった。
志賀が龍安寺の庭について書いた文章を、一種の純粋直感とみてもよいが、しかし経験的直感の基礎にはなり得ない内容である。私が志賀の美意識に限界を見るのはこの点である。
-略-
その趣味判断は感情判断にすぎず、瞭らかに観の感覚の不完全を視ることができる。志賀以後じつにたくさんの人達が枯山水と禅の相関関係について書いているが、それらはすべて概念のない主観的普遍性と必然性を論じてきたにすぎない。
志賀の「龍安寺の庭」は、関心のない快感性によって表出された内容である。なんの苦悩もない人間が通りすがりに見た庭である。言いかえると、他人の荒びがそう簡単に見えること自体がおかしいのである。志賀に見えたのは自分だけであった。「暗夜行路」の中で主人公が娼婦の乳をまさぐり、豊年だ、という箇所があるが、あれと同じである。これは量の問題になるが、狭い志賀の視線は無責任である。
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立原はまた久松真一(京大教授)の名著とされる「禅と美術」にかみ付く。
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つまり久松氏は「禅のもつ七つの性格」を設定し、それに整合するように庭を解釈しているわけである。この放胆な空論は志賀とは別の意味で無責任である。何故こんな通俗的な長い文章を引用したかというと、今日、殆どの人が志賀、久松氏のように枯山水をみており、知的ミーハー族、女の子、禅に興味を抱いている外国人、殊にアメリカ人あたりに恰好の説明文になっているからである。スーベニアショップ向けの内容である。
久松氏は疎石が庭を造ったと断定して「そこに禅的なもの」「禅の表現」をみているが、曖昧である。こうした論は自分だけが見えた志賀の一文よりたちが悪い。龍安寺の庭の石に「犯しがたい威厳」があるとか、苔が「幽玄という点で非常に大事な役割を演じている」とか、「誤魔化しがないだけに、見ることが難しい」とか断じている。単なる造形物にこんなに空疎な言葉をあたえてどうしようというのか。
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ほとんど立原の文章の紹介ばかりとなったが、「日本の庭」はまさに私の気持ちを代弁してくれる評論であった。

最後に立原正秋の略歴を載せておく。
~~~~~~日外アソシエーツWHOPLUS~~~~~~
両親は韓国人で、生まれた時の名前は金胤奎。5歳の時に天燈山鳳停寺の僧侶だった父を失う。
9歳の時に母が妹たちを連れて日本に渡り、叔父に預けられるが、叔父も済州島の病院に赴任したため、11歳の時に母の再婚先に引き取られるまで孤独な日々を過ごす。この幼少時の経験が後年、自伝的小説「冬のかたみに」に結実。
横須賀商在学中から文学に関心を持ち、昭和21年早大文学部国文科聴講生となり、谷崎精二教授主宰の創作研究会が応募した懸賞小説で一等に入選。
22年結婚、日本国籍を取得。薬品会社のサラリーマンや夜間警備員などを務める傍ら小説を執筆し、26年同人誌「文学者」に発表した短編「晩夏」で初めて立原正秋の筆名を用いた。31年本多秋五の知遇を得、その推挽により「近代文学」に「セールスマン津田順一」が掲載され、以後同誌などに作品を発表。芥川賞候補2回、直木賞候補1回を経て、41年「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。
以後は純文学とエンタテインメントを書き分ける流行作家として矢継ぎ早に新作を発表、「情炎」「薪能」「舞いの家」「剣と花」「冬の旅」「花のいのち」「残りの雪」など数多くの作品が映画化、ドラマ化された。この間、39年「近代文学」終刊に伴い新同人誌「犀」が創刊されると世話人に、44年には第7次「早稲田文学」編集長に就任して編集に尽力、岡松和夫、加賀乙彦、高井有一ら多くの小説家を輩出した。
55年亡くなる前に筆名の立原正秋を本名とした。
日本の美と伝統に惹かれ、世阿弥が著した「花伝書」の精神に大きな影響を受け、独自の文学世界を生みだした。能に親しんだ他、美食家、喧嘩の達人としても知られた。他の著書に「剣ケ崎」「漆の花」「鎌倉夫人」「辻が花」「あだし野」「きぬた」「幼年時代」「夢は枯野を」「その年の冬」などの他、「立原正秋全集」(全25巻,角川書店)がある。
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ちなみにわが書棚には代表作「冬のかたみに」と、高井有一による評伝「立原正秋」があった。

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