2016.10.01

ロビーの悪性腫瘍

∞∞∞2016/9/29∞∞∞∞∞∞∞
 
~~~ロビーの病院~~~
わが家の犬のロビーを動物病院に連れて行った。
犬種はワイヤーフォックステリヤ、14才、体重10Kgの雄犬である。
2016/1/21 撮影
 
実は昨年8月に首の周りにぐりぐりがあるのを見付け、医者に「悪性腫瘍」と診断され抗がん剤を嚥んでなんとか抑え込んだのであった。
服薬を続け、ぐりぐりは消滅したが、耳が遠くなり、目が殆ど見えなくなり、足が弱って衰えが甚だしい。食欲が落ちないのだけが救いであった。
今年7月に肛門に異変が生じ、8月初め腫瘍を摘出した。
そして今日また肛門に腫瘍が見つかった。近く手術である。
哀れであり、妻と共に悲しんでいる。
 
~~~歯医者~~~
毎月1回、歯の手入れに通っている。
おかげで殆ど自分の歯でしっかり噛んで食べている。
 
私は歯並びが悪い。
結婚した時、私の母が妻に謝ったという。
「ごめんなさいね。何度も医者に連れて行ったのだけど、どうしても嫌だと暴れて歯医者に触らせなかったの。」
今は丈夫な歯を授けてくれた母に感謝するのみである。
 
~~~祈り~~~
「82才の日記」で次の一節を読んだ。
<わたしは個人的には神を信じないけれど、祈りはとても価値のあるものだし、可能な限り祈りたい。>
西欧人にとって<神を信じない>というのは、我々が<仏を信じない>のとは違う意味合いがあるのだろうが、そこで<祈る>とはどういうことだろうか。
少し<祈り>について考えてみたい。
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

2016.09.29

「82才の日記」メイ・サートン

「82才の日記」(メイ・サートン)を読んでいる。
メイ・サートンについては6年前に記事を書いているので添付する
 
いま私がこの書を読むのは、自分が81才になって、82才の日記の書き方を学びたいと思ったからである。
メイは1993年から4年にかけての1年間この日記を続け、翌1995年83才で亡くなった。
及ばずといえ私もいささかでも自らの末期を整えたい。
なおメイ・サートンを初めて読む方には、この書ではなく「独り居の日記」「海辺の家」などをお勧めする。
 
これまで「黒潮丸通信」は何かトピックを見付けて記事を書いてきたが、これからは我が末期に至る日常の記録として書くことにしよう。
願わくばその当日に至るまでわが硯海の水の枯れざることを。
 

 
∞∞∞たまゆら-とんでん-双子ニレの家 2010/3/19∞∞∞∞∞∞∞

昨年3月群馬県渋川「静養ホームたまゆら」の老人の事故死、そして今月札幌「グループ・ホームみらい・とんでん」の老人の事故死で、私は「双子ニレの家」を思った。

メイ・サートンの小説「今かくあれども」の舞台となったナーシング・ホームである。

 


 

<私は狂気ではない。年をとっただけだ。・・・・

私は老人の強制収用所にいる。ひとが、親や身内をがらくたのように捨ててゆくごみ溜めにいる。

兄のジョンが私をここに連れてきたのは、2週間前のこと。もちろんはじめっから、兄と同居できないことはわかっていたが、心臓発作を起こしたあと、私は家を畳むほかなかった。・・・・>

 


 

生涯独身で高校の数学教師だったカーロは心臓発作で身体不自由になり、ナーシング・ホーム「双子ニレの家」に入居させられる。
ホームは看護婦あがりの40代の女性とその娘が運営している。ほかに殆ど認知症の10数名の老人が入居している。
ここでは彼女は異端である。インテリであるが故に異端である。
老人たちとはほとんど接点がない。運営者のハリエットがカーロを憎むのである。外部への手紙を握りつぶし、稀な訪問者も面会不能と追い返す。

 



カーロは次第に壊れてゆく。
せめて正気を保つために隠して日記を書く。
そしてタバコのライターの油を溜め込む。ホームを焼くために。
どこまでが正気で、どこまでが狂気で、どこまでが痴呆か。

 


 

~~~~~~
メイ・サートンがこの小説を書いたのは1973年頃という。この時代のアメリカの老人施設はこのようであったという。
現在は、どのようになっているか?
「たまゆら」や「みらい・とんでん」と異なるところあるのか?

 


 

~~~~~~
「たまゆら」や「みらい・とんでん」を報ずるマスコミの口調は設備の不備を咎め、法律の不備を追求し、運営者の怠慢を責める。
たしかにその告発がなければ世の中の改善はないであろう。
しかし私は「たまゆら」「とんでん」の現状が国力であり民度だと思うのだ。私はその国力の中で老いるしかない。

 


 

~~~~~~
メイ・サートン(1912-1995)はベルギーに生まれ、第1次世界大戦を避けて一家でアメリカに移住する。米国籍。父はハーバード大教授。

ヨーロッパに学び、女優を目指し、劇団を主宰し、そして作家・詩人となる。バージニア・ウルフ、ジュリアン・ハックスレーなどとの多彩な交友があり典型的な東部エスタブリッシュメントである。

 



私はたまたま「独り居の日記」「海辺の家」「夢見つつ深く植えよ」「私は不死鳥を見た」「総決算のとき」「今かくあれども」を読んだ。


2016.09.24

ヘアクリームのこと

どうも髪の毛がぼさぼさになって納まらない。
5-6年前から使っている整髪料をよくよく見たら「強力 寝癖直し ヘアウオーター」とあってメーカーは石鹸会社である。
 
これは整髪料ではないのかもしれないと考えて、「ルシド-ヘアクリーム」を買ってきた。
 
使用後の写真である。少しはましになったようだ。 2016/9/24撮影
 
整髪料についてはこんな事件があった。
 
~~~2005/10~~~~~~~~~

​2005/10/04撮影
 
これは何の写真であろうか?
なにやら瓶を顔の横に掲げている。
鏡の前で撮ったので文字が読めるように逆転してある。
「ビオレ」と読める。
1週間ほど前から頬のあたりがガサガサになって気になっていた。思いついてクリームを塗った。ヨット用の洗面袋から取り出して塗った。ところがさっぱり改善されない。
今朝何気なく「ビオレ」の内容を読んだらシャンプーではないか!これでは改善されない道理だ。
 
実は以前にも同じようなことをしている。
 
~~~~04年3月~~~~~~~~
前略
> 加齢により肌に水気が乏しくなり、冬場などがさがさの状を呈する。
> それで稀に(月に数回)セナクリームなるものを顔面に塗布する。保水作用があると いう。
>
> 今朝しげしげとそのクリームを見てみたら、なんとそれはヘアクリームではないか。
> ここしばらく、整髪料を顔面に塗布していたのであった。
>
> なんと云うべきや。
 
~~~~~~~~~~~~
 
人間はかくして老いてゆくのであるか。

2016.09.14

天草(てんぐさ)物語3-ニール号-完

実際にニール号の姿を見てYさんの幻想はますます燃え盛った。
彼の頭の中は<沈船→宝船→引揚げ→億万長者>の夢で一杯だったのだろう。
 


私の考えは違った。
・文化財扱いで引き揚げるには数十億も掛かるだろう。
・役所の許可、地元の同意、関係者の調整、大変なエネルギーが必要だ。
・実行委員会の頭には県知事くらい引っ張り出さないと、
・まず役所まわりだけだって膨大な時間と経費が掛かる。
・それで得るものは決して億万円の儲けではない。
・私はやらないよ。

Fさんも同じような考えだった。
 


Yさんは益々燃える。
町長、漁業組合長、青年部会長、仕事を休んで1人で飛び回るがどこも同調してくれない。
地元としてはこういう手合いは時々現れるので慣れているのかもしれない。
金主でもない風来坊など相手にしないのだろう。
 


ところがどういう伝手を頼ったのかYさんは遂にTVに食い付いた。日本TVが取材に来ることになった!
1989年1月日本TVの取材チームが来て潜り、ニール号を確認した。
勿論現場のリーダーはFさんである。
Yさんの執念の凱歌であった。





 

しかしここまでであった。
話は発展しなかった。

 


1989年5月2~6日、「ウィンデイホリデイ」号で現場に赴いた。


1989/05/03 妻良港外の写真である。中央赤ジャケットがYさん。右が私。
この悲壮なる顔を見よ。
 


こうしてニール号の夢は次第に凋んでいった。
Yさんの失意は甚だしく、遂に日本脱出に至る。
その話はまた別にしよう。   完
 

2016.09.13

天草(てんぐさ)物語2―ニール号

マイボートを伊東に置いていた当時、私の勤務地は丸の内帝劇ビルであった。
私はヨット遊びに社内の同僚や後輩を誘うことはなかった。彼らの出世に障ることを慮ったからである。
 
ヨット仲間はもっぱら当時主宰していた「PCオーシャンヨットクラブ」や舵誌の「仲間募集」欄で募った。
そんな中に稲取のFさんが居た。
彼の前職はプロの潜水夫だった。仕事の現場があまりに危険なので辞めたのだという。当時は稲取のホテルの支配人をしていた。
さらに聞けば彼は日比谷高校出身だという。奥さんは浅草生れ浅草育ちの江戸っ子だった。屈折した人生だとも云える。
彼の家を訪ねたことがあったが高台で眼下に白波の寄せる浜を見下ろす、海の男の理想の家であった。
その時中学生くらいの女の子が、「お父さんもお母さんも狡い。2人はすべてを知ってここに来たのに、私はここしか知らない。」と零した。
彼女は鋭い。今どうしているか。
彼は現在東伊豆町会議員として人並み以上の活躍をしている。いい友人を持った。
 
「ウィンデイホリデイ」号上で雑談をしている時、ふとFさんが<沈船を知っている>話になった。
潜水夫の仕事をしている時、南伊豆妻良港の出口で沈船を見付けたのだという。場所もきっちりと山立てをして記録してあるという。
 
この話に食い付き、夢中になったのがYさんである。沈船引揚げなんて夢ではないか!
実はこの沈船は無名の宝船ではなかった。嵐で沈んだフランス船ニール号として地元では知られた存在で、地元の海臧寺に招魂碑があるのだった。
1874年ウイーン万博に出展後、展示物や最新の織機などの宝物を積んでマルセーユを出帆したニール号は横浜に向かう途中石廊崎沖で嵐に遇い、妻良沖で難破したのだった。
 
 
Yさんはお構いなしである。
国会図書館に行き、国立公文書館に行きと、ニール号に関するあらゆる情報を集め始めた。
そしてとにかく現場に行きたいと言い出した。
 
ここでちょっとYさんの話をしよう。Yさんは舵誌の募集記事をみてやって来た。
ある日曜日の朝、約束の時間より1時間も早く来て伊東漁港の堤防で待っていた。あのちょっとシャイで飄々とした姿を今も忘れられない。
彼が乗ってきたのはアマゾンとかいう1500CCのバイクだった。ヨット経験無しのバイク乗りだった。
そのバイクで年に一度は北海道一周に出る。ある年大学生の息子と一緒に出掛けたが息子はどうしても従いてゆけず、途中でパーティを解いたという。
彼は都内のタクシーの運転手で、当時Gキャブに居たがどこへ行ってもその営業所でトップの稼ぎ上げるという。勘がいいのだ。
ヨットのことも実に注意深く我々の動きを観察し、2度と聞くことはなかった。私が間違ったやり方をしていると間違ったまま覚えられ、赤面したものだ。
私は大学でも出光でも、国会図書館や公文書館に自分の調べものに行った人を聞いたことが無い。
 
 
彼の切迫衝動は抑え難く、88年9月遂に現地へ行って潜ることになった。
この行動のリーダーはFさんである。「ウィンデイホリデイ」のクルー4名で出掛けた。私はこの時は参加していない。
Fさんは思慮深く、現地の宿に泊まり、現地の漁船をチャーターして現場に向かった。いずれ地元の協力を必要とすると考えたのであろう。
 
そして見付けた。
Fさんの見立て通り、水深35メーターの海底に殆ど砂に埋もれてそれはあった。
 
Fさんと海底の写真
Fさんのスケッチ  海底のニール号
 
(続く)
 

天草(てんぐさ)物語1―初島

今日(9/8)は東伊豆町の町議会傍聴に行った。わが旧友F議員が質問に立つことを知ったからである。
質問のテーマは<天草てんぐさ問題>であった。
私がなぜ天草に関心を持つのか、F議員といかなる関係か、語れば長い長い物語である。
取りあえず次の3点に分けて話そう。
1.本日の質問要旨
2.初島
3.ニール号
 
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東伊豆町役場前の金目鯛と江戸城築城石
 
~~~1.質問要旨~~~~~~~~~
伊豆半島の東海岸はところてんの原料となる天草の産地である。
品質の良いことで珍重され、各漁港はそれぞれに厳しい管理で資源を守ってきた。
例えば採取は素潜りに限定し、海女には鑑札が渡されて一般の採取は禁止されてきた。
しかし新規に海女の鑑札を受ける者がなく、遂に今年最後の80才の海女が廃業して1人も居なくなった。
 
この事態を見越して東伊豆町ではアクアラングによる採取を認める特例を定めた。
ところがこれまでの規制があまりに厳しかったため岸に流れ着いた天草を拾ってもいけないという風潮になり、天草採りが地場産業でなくなっている。
せっかくアクアラングを認めても、町外の若者が来て採ろうにも採れないではないか。
地域振興、地場産業発展の観点からすれば、もっと検討の余地がある。
これがF議員の意見であった。
 
~~~~~~~~~~~~
熱海と伊東からほぼ等距離の沖に初島がある。
 
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島の北側の港が主港で連絡船が発着する。
風向きが悪い時のために西側に避難港がある。桟橋とスロープのみで陸上施設など何もない。
いつの頃かここに「フィッシャリーナ」が出来た。そのことは後に書く。
私の忘れ難い思い出はまだ避難港だけだった時代の話である。
 
~~~初島の天草~~~~~~~~~
​1985年頃、私はマイボートを伊東に置いていた。漁港の一角の防波堤にプレジャーヨット&ボートが10数隻、肩身狭く勝手係留していた。
今よりも遥かにマリーナ事情が厳しかった時代である。
私の舟遊びの目的は銚子から熊野灘までのすべての漁港に入港することだった。
勿論伊豆半島、駿河湾、三河湾、五カ所湾では実現している。
 
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​88年5月 初島避難港にて
 
初島は伊東から5マイル=1時間でお気に入りの遊び場だった。
連絡船発着の港の裏側に、風が悪い場合の避難港があった。ケーソンの岸壁が1本。常駐する漁船もない。
着けて、泳いで、買ってきたカツオを捌いて、食べて、飲んで、寝る。他の艇と一緒になることは滅多にない。
自分たちだけの隠し砦だった。
 
ある時、珍しく人気(ひとけ)があった。
岸の網干し場の横に漁師小屋があったのだが、そこに人がいる。女性ばかりだ。7-8人。子供も数人いるようだ。
コンクリートのスロープ一杯に赤い天草が干されている。
夕餉の支度か白く細い煙が上がっている。コンロは七輪か。まさに浦の苫屋の風景である。30年も50年もタイムスリップした感覚だった。
近寄ってみたら海女だった。飛び交う言葉は朝鮮語。韓国の海女だった。
後で聞くと宇佐美の事業家が天草の権利を落札し、韓国から海女を呼び寄せて収穫していたのだという。
韓国が奇跡の成長を遂げる直前の時代だ。
 
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~~~初島リゾート施設とフィッシャリーナ~~~~~~~~~​
初島は田んぼも無く貧しい島である。長らく島内の戸数を限定し、跡取り以外は島を出ることを厳しく守ってきた。
だから都会の風俗が入ることが少なかった。
80年代の終わり頃、島の人に信頼の厚い某氏が島の振興にリゾート計画を立ち上げた。
それまで頑なに外部資本の入島を拒んでいた島民も、その人ならと受入れた。
東京電力やソニーの名前を看板に押し立てたその計画は、立派なホテルを作り上げた。
しかし完成を前にしてバブルは崩壊し、1口5000万円の会員権は売れず、倒産し?、結局現在はExivというチェーンになっている。
島の人の心の痛みは大きかろう。
 
さらに遅れて避難港の横にフィッシャリーナが建設された。どこからどういう政治力学が働いたものか。国の資金が60億も投入されたという。そんなに掛る筈がない。
すべて自前の金で三河みとマリーナを作った私は大いに憤慨したものだ。
いま初島フィッシャリーナを利用する観光客はいない。
 
全国津津浦々で繰り返されたこういう無駄な投資が日本を貧乏にした。
私は島の関係者ではないし島を研究したこともない。ここに書いたのは自分の体験と新聞記事と巷の噂である。
 
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88年7月 初島でLM35のサーベイ  黒潮丸
 

2016.09.07

9月の予定

9月に入り、朝夕はやはり凌ぎやすい。
 
~~~9月某日~~~~~~~~~
9月の某日、珍しく老人の予定が3つも重なった。
・出光のOB会
・ボランテイアをしているライブラリーの懇親会
・ガーデニング仲間の箱根ツアー
 
箱根を選択した。
 
~~~2島返還?~~~~~~~~~
岸田外務大臣が9月3日宮崎県日南市の小村寿太郎の墓参りに行ったとのニュースを見た。
私は即座に、安倍と岸田は北方領土問題を2島返還で決着させる腹を決めたと解釈した。
 
小村元外相は日露戦争後の講和会議で一銭の賠償金もとれない条約を締結し、激高した国民は帰国した小村を日比谷公園焼き打ちで迎えた。政府は戒厳令を発令し、解除は2ヶ月後であった。
岸田は2島返還に反発する国民の感情を己が身に引き受ける覚悟を決めたのだろう。
 
~~~ISとイスラム教~~~~~~~~~
「世界史としての日本史」(半藤一利、出口治明)を読んだ。
特に感銘を受けたのは次の2点である。
 
・ISとイスラム教を殊更に絡めてはいけない。ISはテロ集団であるが、イスラム教徒全部をテロリストにしてはいけない。
・「コストを試算-日米同盟解体」(毎日新聞社)によれば、日米同盟をやめて中国に対抗できるだけの兵力を持つと試算すると24兆円/年かかる。戦費ではない、維持費である。
日本の税収は60兆円/年である。
 

景観デザイン―東京港

築地と豊洲の位置を見てみよう。

 
狭い東京港の中で、魚市場=東京卸売り市場が移転するのにもうこれ以上良い立地はあり得ないと思う。
あると言うなら教えて欲しい。
 
それにしてもわが出光江東油槽所はテニスの森になっている。もって瞑すべし。
 
~~~~~~~~~~~~


​豊洲市場完成イメージ図である。もうこのほとんどが完成している。ゆりかもめの「市場前駅」はずっと前から出来ている。
向こう側が晴海ふ頭、東京港の客船桟橋である。
手前が有明テニスの森、われら出光人の汗が染みている。
 
~~~~~~~~~~~~
 
2004年3月に「景観デザイン-東京港」の一文を書いていたのでご披露する。
 
竹芝から見る東京港はすっかり変わっていました。
私がその辺りの海を毎週のように乗り回していたのは15年以上前です。その頃13号地には1棟のビルもなく、砂漠でした。その頃の東京港内のチャートは真っ白でした。
竹芝側も戦後のままでひどいものでした。これが東京の海の玄関か、といつも憤慨してSIGに書いたりしていたものです。
しかし一変していました。美しいかどうか判りませんが、美しそうなビルや橋がありました。竹芝にも昔の竹芝桟橋・日の出桟橋には考えられないようなマスト広場などが出来ていました。いつも乗り着けては昼飯を作って食べた浜離宮も、昔よりきれいに見えました。
西宮・尼崎あたりや大阪北港南港よりよほど良くなりつつあるように思いました。
あの砂漠や利権ばかりの倉庫群からこんな街並みが出来ることを鈴木俊一知事は予見していたのだろうか?
こんなランドスケープデザインを誰かが具体的に描いたのだろうか
考えてみましたが、夢の島から晴海、品川に到るこれほどの大きなスペースのグランドデザインを描くほどのデザイナーはどうしても思い浮かびません。
晴海のターミナルやベイブリッジや品川駅や汐サイトや、個々施設ののデザイナーはいるでしょうが、このグランドデザインは誰が描いたのか?
これがお役所仕事というものの恐ろしさのようです。
http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2004/03/post_5.html
 
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 OfficePCC: usedboat.jp/
森下一義

2016.08.29

豊洲移転

築地市場の豊洲移転が喧しい。
 
それで思い出したのがこの写真である。
 
9211kotooilterminaltoyosugastank_00
 
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1992年(平成4年)11月撮影
出光江東油槽所に着桟する「WindyholidayⅡ」号と私
下の写真の後方左手が東京ガス豊洲工場の跡地である 新築地市場移転予定地
 
出光江東油槽所は昭和20年代に開所した石油基地で、まだ弱小石油商社だった出光の貴重な首都圏の基地としてここからドラム缶を運んだ苦労話を先輩からよく聞かされたものだった。
92年当時には既に閉鎖が決定しており、わが「W・・・」号も翌年には東京湾マリーナから三河みとマリーナに移動が決まっていたので、このクルーズは一種の感傷旅行であった。シングルハンドである。まともに稼働している油槽所ならとてもマイボートは着けられない。
東京ガス跡地が魚市場になるとはこの時は知らなかった。
 
ついでに言えば築地市場内に出光の出張所があり、出入りする漁船に油を売っていた。
私は好きだからよく出張所に行って油を売っていた。中川所長だったかな・・・
 
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Boatmarkkayak150 http://usedboat.jp/
OfficePCC: 森下一義

ゴリラ顔

お盆で、故人の写真に触れる機会が多かった。
写真の無い人もいた。
さて自分の遺影はどれになるのかなと考えた。
 
探してみたがこの1、2年の間に撮った自顔はこの2枚しか無かった。
 
150925yugawarafacebookseminar
パソコン講習会で
 
160816kazujidori2
ベッドで本を読んでいて自撮り 
 
ちゃんとした写真を撮っておかなければいけないと思った。
 
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「顔検」というサイトがあった。 http://www.mryossi.sakura.ne.jp/kaoken/
質問に答えると顔を判定してくれる。
それによると私の顔は「ゴリラ顔」だそうだ。
 
検定結果
あなたの顔はゴリラ顔です。
あなたの顔もうそのまんま!ゴリラに似てるから「ゴリラ顔」です。体格が大きめで顔がごつく、ちょっと丸っこい、まさにゴリラそのものです。これで小柄だと、「サル顔」になります。サル顔が大柄に、ごつくなるとゴリラになるのです。見た目的に体力がありそうに見えるので、就職のときなどは結構体力派として歓迎される場合が多いです。ただし、恋愛やお見合いのときはどうも有利な展開に持っていくことが難しいことが多いようです。相手がどうしても生理的にひいてしまうからでしょう。
ゴリラ顔さんの特徴
とにかくゴリラっぽい、というかサルっぽい?
見た目どおりで、何故かバナナを異様に好む。
結構頭が単純な人が多い。悪く言うと「体力バカ」なのかも・・・。
声もやはりゴリラっぽい。
相性がいいのは「モアイ顔」。逆に相性が悪いのは「キツネ顔」。
 

幸い妻はキツネ顔ではない。
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OfficePCC:中古艇相談とマリンサーベイ
 「ボート民泊試論」出版 http://usedboat.jp/boat-sharing/boatbnb-cover.html
森下一義

2016.08.12

電子書籍「ボート民泊試論」の発行

このたびAmazon Kindleで電子書籍「ボート民泊試論」 <副題:ボート民泊実現の課題を探る>を発行した。
 

<船に旅館業法は適用されない!>

 

国を挙げてのインバウンド対策の焦点の1つが宿泊施設の不足であるという。

そこで浮かび上がったのが民泊だが旅館業法との調整が難しく、必ずしもスムーズなスタートとはなっていない。

 

私はボートオーナーの立場、そしてマリーナを運営した経験を持つ立場から「ボート民泊」の推進を提唱したい。

これは私の発案ではなく、Airbnbでは既に世界の港で多くのボートがホスト艇として提供されている。

わが国でも同じようにやれるはずである。

 


 

首を突っ込んでみれば課題は多い。

ボートは宿泊施設としてのインフラを欠いている。

その欠陥をマリーナの機能で埋めたいと思うがマリーナにはそのマインドが無い。

 

課題は多く私が課題を解決する力は無い。

しかし課題をボートオーナーやマリーナ業者、宿泊関連業者、行政が広く共有することで必ずやよい方向に解決されていくものと信ずる。

 海を愛し船を愛する者として「ボート民泊」の普及を願ってこの試論をまとめた。

 



価格は480円である。

・ボート民泊とは何かを知りたい方

・マイボートで民泊収入を得たいと考えている方

・マリーナの事業多角化を考えている方

・民泊投資を考えている方

ぜひご一読あれ。

 




OfficePCC:中古艇相談とマリンサーベイ

黒潮丸 こと森下一義

HP: http://usedboat.jp/

Mail: pccgarden@gmail.com

 



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プリント版

Word原稿をプリントアウトし、コンビニコピーで手作りした紙プリント版(カラー)があります。

価格:2000円(税込、送料込)

ご希望の方はメールでお申込み下さい。 pccgarden@gmail.com

 



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< 目次 >

はじめに

目次

黒潮丸のプロフィール

第1章 ボート民泊に泊まりたい

第2章 ボート民泊-ホスト艇の条件

第3章 ボート民泊でマリーナの役割

第4章 ボート民泊の収入試算

第5章 民泊ボートは投資物件たりうるか

第6章 マリーナでなければならないのか

第7章 ハウスルール

あとがき


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2016.07.13

囲碁のこと

今朝のTVで、ある碁会所で今月になって15人も会員が増えたとTopicsを流していた。
数日前、新宿歌舞伎町の碁会所の24時間を映す番組があった。
歌舞伎町の碁会所は私も昔行ったことがある、と見ていたが創業35年というから私の行った碁会所とは違う。私が行っていたのは60年前だ。
 
私は大学生の頃、父に碁を教えてもらった。
倉庫を探したらこの写真が出てきた。懐かしい。
1995kazuumeichiigo3
 
昭和53年頃、阪急六甲の高羽町に住んでいた。
駅までの途中に「鷹羽塾」という学習塾があり、小学生の娘が自分で探してきて行きたいというので行かせた。
面白い先生で時々小旅行に連れて行ってくれた。私もついて比叡山や紀三井寺などに行った。
ある時、ふらりと三宮の碁会所に入ったらその先生が居るではないか。打ったがとても歯が立たない。
その後塾の放課後に寄るようになったが、どうしても3子以上は置かせてくれず、ついに一度も勝てなかった。
神戸を離れてしばらくして、先生の写真が大きく新聞に出た。「虹へ、アバンチュール!」という小説が第1回サントリーミステリー大賞を獲ったのだった。
160712takahatokuyarainbow
昭和58年初版 書棚にあった
 
昭和57年頃、出光静岡支店に松本某君という囲碁の達人が居た。アマチュアの6段で、全国のアマチュア中10指に入ると言われていた。
勿論静岡県のチャンピオンで、当時静岡新聞社が県チャンピオンと時の名人を対戦させる企画があり、松本某君は3子で趙治勲名人と対戦して勝った。最も脂の乗った時期の趙治勲である。
静岡県に囲碁の実業団大会があり、県庁、県医師会、ヤマハ、ホンダなど強豪に伍して出光チームも参加した。松本主将のおかげで一目おかれた。
私も初段格で出場したが全敗であった。私の初段が怪しいというより、みなが下格に詐称していたようだ。
 
雑誌の段位認定の問題を解いて提出したら3段をくれるという。認定証に5万円を払わなければならない。
妻に相談したら馬鹿馬鹿しいというので申請はやめた。
 
社内での昼休みの囲碁はだんだん遠ざかり、将棋を嗜むようになった。食事時間を除いて45分では囲碁は楽しめず、20分ですむ将棋に傾いたのだ。
絶対に歯が立たなかった相手に1年経ったら勝てるようになった。社内将棋大会の優勝賞状がある。
 
リタイア後伊東で碁会所に行ってみたが、タバコの煙に辟易して行くのをやめた。
何人かリタイア老人と打つ機会があったがどうしても3時間はかかる。3番打つまでは離してくれないのでやめた。
 
この15年、石を握ったことはない。

2016.07.09

今年の辞世句

たまたま「ハドリアヌス帝の回想」(マルグリット・ユルスナール 訳:多田智満子)を読んだ。
 
ハドリアヌスが次の次の後継に指名したマルクス・アウレリウス・アントニーヌスは私の高校・大学時代を通じて<尊敬する人物>の筆頭であった。出光への入社時にもその名前を書いた。
「自省録」はいまだに手元にある。
 
160708memoryhadrianus
 
160708hadorianus
 
​多田智満子(1930-2003 福岡生れ、東京女子大、慶大卒)の訳文が心に沁みた。
 
多田がこの翻訳を指導教官の白井浩司との共訳にと願い出たところ、白井は「一文字も直すところは無い。あなたの名前で出しなさい。」と言ったという。
三島由紀夫は「あれは本当は男の翻訳だろう。」と信じて疑わなかったという。
 
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多田は翻訳家と同時に詩人であり俳人であった。
告別式で配られた遺作句集「風のかたみ」の最後の句。
 
草の背を乗り継ぐ風の行方かな
 
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この句を読んで私の一句。
 
波の背を割きて進み̪きわが帆舟(ほぶね)  2016/7  黒潮丸
 
以前、辞世は毎年作り変えるべきだと書いた。
これを今年の辞世の句としておこう。
 

2016.07.06

映画「フラワーショー」

映画「フラワーショー」が7月2日に封切られるというので楽しみにしていた。
アイルランド映画で、無名の女性ガーデンデザイナーがチェルシーフラワーショーに出展して成功を収めてゆく実話に基づいたストーリーらしい。
石原和幸さんの成功物語はわざわざ講演まで聞きに行ったほどだし、是非観ようと思っていた。
 
7月2日になったが静岡の映画館ではやっている様子が無い。
来週東京に行くのでどこかで観られないかと調べて驚いた。
どこも2日から8日まで1週間だけの上映である。
さらに驚いたことには上映館は東京で日劇など3館、神奈川で2館、そして静岡ではゼロ館であった!
 
この調子では2番館、3番館といった上映も無さそうだ。
ガーデニングブームの凋落も極まれり、だ。
DVDになるのかどうか。
 
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2016.07.05

ネット句会-岩たばこ

岩たばこが咲いた。
 
 
このところ妻がスマホでFacebook俳句会などネット句会に夢中である。
写真を撮って、俳句をひねって、投稿する。
毎日毎日、半日はこれに費やす。
周りに歳時記や国語辞書、類語辞典など10冊近くを積んでいる。
そして<いいね!>や<コメント>などの反応に一喜一憂している。
人生でこんなに勉強したことはない、と自分で驚いている。
 
ネットの句会に師匠は居ない。
一応、みんな同列である。没の無い同人誌である。
勢い、みんなで季節の先取り競争になる。
新しい花の写真を撮って出したが勝ちである。
珍しい季語を見付けて使ったが勝ちである。
 
妻が岩たばこの一番乗りの句を作った。
   涼しげに密かに咲いた岩タバコ
私がこう添削した。
   閼伽棚に秘かに咲けり岩たばこ
幸い反応は上々らしい。
 
閼伽棚のことは昨年3月のこの通信に書いた。
60数年昔、高校の国文の時間に熊谷武至先生に習った言葉である。
 


2016.06.30

Kindleで電子出版した感想

初めて自著(?-著作と言えるのかどうか)を出版しての感想。
 
<ほほう、自分が書いた通りに出ている! 良くも悪しくも自分が書いた通りの文章だ。足されても引かれれもいない。 参ったね。>
 
Kindle出版では表紙が重要視されるのだそうだ。多くのKindle手引きには<表紙はプロに任せろ>と書いてある。
私の場合、「外洋クルーザーのスキッパーになる方法」の表紙はイラストだけ「ココナラ」で2000円で描いてもらった。
元絵を提供して著作権に抵触しないように書き直してもらったのだ。
そして自分で表紙を作った。
 
あまりに簡単に出版出来たのでもう次作を考えている。
そして表紙を作った!
このイラストは私の自作だから世話が無い。
 
Hyoushiusedboath
 
中身はまだ1行も書いてない。
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
黒潮丸書房 森下一義

2016.06.28

Kindleで電子書籍を出版

ご無沙汰でした。
実は執筆に打ち込んでいまして・・・・・ハハハ、いや本当に本をまとめていたのです。
殆どは以前に書いた記事の寄せ集めですが。
 
題して「外洋クルーザーのスキッパーになる方法」  
版元:黒潮丸書房 by Kindle
著者:森下一義
定価:380円
 

まえがき

目次

黒潮丸のプロフィール

1章 ヨットと外洋クルーザー

2章 クルーの役割

3章 クルーの資質

4章 クルーの個人装備品

5章 スキッパーへの道

6章 クルーザースクールの講義内容

7章 外洋クルーザーの取得費用

8章 外洋クルーザーの年間維持費用

9章 共同所有、仲間募集

10章 チャータークルーズ

11章 クルー募集への応募

参考資料Ⅰ クルー契約書

参考資料Ⅱ 理想の外洋クルーザー

あとがき


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これを読むにはAmazonでKindleアプリをダウンロードする必要があります(無料)。

PC、スマホ、タブレットで閲読可能です。


お買い上げ下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

「クルー契約書」のひな形など、お役に立つと思いますよ。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

黒潮丸書房:  森下一義


 

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2016.04.18

コーヒーカップのこと

TV映画を見ていてふとコーヒーカップに目が留まった。
あれ、あれは誰のデザインだったか?
確かに一時期傾倒した作家の作品だが、その’だれ’かがどうしても思い出せない。
 
必死で考えた。そして以前静岡のギャラリーで見たことだけを思い出した。
さてどのギャラリーだったか? その’どこ’を思いだせば、ブログにでも記録してあるだろう。
そして同じギャラリーで重森三玲の展示を見たことを思い出した。
こうなればEvernoteがものを言う。これはタイトルだけでなく文中の単語に至るまで検索してくれる優れものだ。
重森三玲の展示を見たのは今は無い「静岡アートギャラリー」だったと判明した。。
そして静岡アートギャラリーから’スージー・クーパー’の名前に辿りついた。
「ウエッジウッドの歴史」展示会(2009/9)でスージー・クーパーを知ったのであった。花柄の食器デザインで名をはせた有名デザイナーだった。
当然窯元のハウス・デザイナーかと思ったらさにあらず、自分で食器会社を持って制作をウエッジウッドに発注する立場だったらしい。
恐れ入ります。
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ひなげし
さて重森三玲である。著名な造園家である。
作品は数多いが、これは東福寺方丈庭園の市松模様である。
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しかし彼の真価はここでは無い。
彼は初めて日本中の日本庭園500庭を実測してまわり、図入りで「日本庭園史図鑑・26巻」「日本庭園史体系・33巻」を刊行した。
これはとてつもない大事業である。成し遂げた重森三玲は巨人である。
彼こそ文化勲章の第一号に相応しい。なのに受賞していない。庭師は対象にならないのか?
 
彼は1896年岡山生まれ、東京芸大を出て絵を志すがまわりに俊秀が多いのに悲観し、生け花や茶道に目を向けたらしい。
1933年、華道界の革新を目指して「新興いけばな宣言」を起草した。集まった仲間は勅使河原蒼風、中山文甫、桑原専渓らであった。
宣言の内容は、「いけばな」は懐古的感情を斥ける、形式的固定を斥ける、道義的観念を斥ける、植物学的制限を斥ける、花器を自由に駆使する、といった昭和初期の世情からすれば思い切った革新的なものであった。
文化勲章をもらえなかったのは案外この「宣言」が原因かもしれない。
戦後、小原豊雲、安達潮花らも加わり前衛いけばなは空前の盛況を迎える。 (三頭谷鷹史「前衛いけばなの時代」)
 
しかしあらゆる形式を排するとした彼らも、集金システムとしての家元制度を斥けることは出来なかった。
のちに勅使河原霞、安達瞳子が家を出て親を悲しませるのも、もとはこの「宣言」にあるのであり、身から出たさびとも云える。
前衛の最たる蒼風が、草月流が巨額の脱税で挙げられた時に「これで勲章が無くなった。」と零したという。 (早乙女貢「華日記」)
 
四国から中川幸夫という華道家が出てきた。三玲に見いだされた彼は文字通り形式を排する「宣言」を実践し、終生家元とならなかった。
幼時カリエスを患った彼は背中にコブを持ったネゴ背であった。
池袋の一間のアパートに極貧の生活を送りながら、時に華道界を驚かす作品を発表し続けた。20万本のチューリップを散らしたこともあるという。赤の使用が特徴である。
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赤といえば私は蜷川実花の作品にいつも中川幸夫の赤を視るのである。
中川の情念が実花に乗り移っているに違いない。
コーヒーカップに蜷川実花の花を貼って中川幸夫へのオマージュとしよう。
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グロリオーサ
 
かくして話はカップに発してカップに収まった。
長生きし過ぎた年寄りの話はかくも、くどい。
 

2016.03.31

梨園の妻

当代きっての人気女優が人気歌舞伎役者と結婚したそうで、’梨園の妻’と囃して喧(かまびす)しい。
梨園とは何ぞや?
 
Wikiによれば、<梨園(りえん)とは中国宮廷音楽家養成所である。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。>とある。
 

谷晃の「茶会記の風景」によれば、3000件もの茶会記の記録の中に、歌舞伎役者は1人も居ないそうである。
 
歌舞伎役者は茶会に加われなかった?

2016.03.15

信長公茶会記

「癒しと憩いのライブラリー」でたまたま「草庭」(堀口捨己 1968年刊)という本を手に取った。
ガーデニング関係かと思ったらさにあらず建築関係の本だったが、中に「信長公茶会記」なる1章があった。
44ページにわたり、100項目の注記のある力作であった。偉い人の書くものは違う。
最初に書かれたのが昭和12年、「草庭」に納めて出版したのがS23年、再販したのがS43年、それを私はS91年の今年手に取った。
堀口捨己(1895-1984 建築家 芸大教授 芸術院賞 歌会始召人)
 
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実は私は茶会記に関心を持った時期があった。
オープンガーデンなど「お庭拝見」の際に「庭会記」の記録を残すことを考えたのであった。
 
わが家にあった「茶会記百選」(裏千家茶道教科15 淡交社 1980年刊)に、信長が津田宗及を招いた茶会記が出ていた。 
天正2年(1574)2月3日  「天王寺屋会記」
堺衆であり本願寺門徒である津田宗及にとって、堺に矢銭を課し石山本願寺を攻めた信長は許せざる相手であった。しかし天下の趨勢に抗すべくなく、天正1年に京都での信長の茶会に列席、翌2年信長の本拠岐阜に参賀して、信長から茶会に招かれたのであった。
会記には道具類から料理に至るまで細かく記されているが、中に「紹鴎茄子」という名器がある。これはもと武野紹鴎の所蔵であったが、娘婿の宗及が預かり、信長に献じたものであった。これにより宗及は千石を拝領したという。招かれたとはいえ茶をたてるのは宗及である。信長は宗及の点前を見ていて自らは服さず、宗及に賜って宗及が自服したという。
 
茶会記あるがゆえに、われらは今この光景を瞼に見ることが出来る。
 
毎度言う、茶に茶会記あり、花に立花図あり、何ゆえ庭に庭会記の文化なきや。  1996/06/14記
 
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​「茶会記」とはまことに潔い詞章である。
名詞と数詞の羅列による叙事であり、形容詞は入らない。
茶会記の記述こそ茶道修業の真髄であろう。​
 
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写真が判りやすいのでこれを載せた。
 
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「庭会記」の普及を目指してそのネット化を志した。
「掲示板」を考えたり、WordPressでのサイトを考えたりしたが、どれもわが能力不足で挫折した。
今ならスマホアプリ化であろう。
 
しかし、もう無理だ。
これが夢の残骸である。
 
Titleillustgardenersnfieldnote11061

2016.02.28

追悼句会

「癒しと憩いのライブラリー」(サザンクロスゴルフ内)に郷土資料の一角がある。
そこで「山川家の祖先と八幡野」(山川速水 千秋社 1990)なる1冊を手に取った。
八幡野の昔を知りたかったのである。
 
山川家は播州三木市から流れて江戸初期に八幡野に住み着いた落ち武者の一統らしい。
港の上の称名院に過去帳や墓石が残っているという。
変遷はあったが、大正から昭和初期には医院を開いていたようだ。
 
大正15年5月、院長山川某の妻が亡くなった。享年42歳。
院長は各地から会葬に集まってくれた人たちが散じないうちにと、すぐに追悼の句会を開いた。
参加15名。題「ほととぎす」。
喪主院長の句、<ほととぎす啼いて帰らぬ夜なるかな>
第1席の句、<かあちゃんは今どこにいるほととぎす>
 
喪主の句は、どこぞ俳書に先出は無いか?と思うほどの名句であろう。
句会には小6の長男も参加していた。みんな第1席の句はその子の作だろうと投票したのであった。
実はそれを当て込んで受けを狙った神主さんの作であった。
 
葬儀直後の句会といい、喪主の句といい、神主さんの茶目っ句といい、当時の八幡野の文化度が偲ばれる。
現在妻のはまっている「facebook俳句会」のレベルをはるかに超えている。
 
大正から昭和の初期、八幡野の医者は池や赤沢までの往診(午後は往診が常であった)に馬に乗ったそうである。
馬丁を雇えないので家族で馬の世話が大変だったそうだ。
夜の急患の往診依頼にはカゴを担ぐ若い衆を連れてきた。
伊東から八幡野港までは東海汽船に乗った。
 
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追悼

句会

2016.02.18

雛あれば

雛の季節である。

 
雛あらば娘あらばと思いけり   子規
 
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私には娘が1人いる。
 
病床六尺に呻吟し、<雛あらば・・・><娘あらば・・・>と詠む悲痛を思う。
 

華胥の国に遊ぶ

熊本の友も米寿を迎えたりときには華胥(カショ)の国に遊びて   諏訪兼位
 
今朝の朝日歌壇高野公彦選第1位の句である。
 
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諏訪兼位氏については大島兄よりご教示を受けた。
1928年生まれ。地質学者で、名古屋大学理学部長、日本福祉大学学長を歴任。朝日歌壇への投稿者としても名高い。
 
ランボオの辿りしあとを訪ね行くアビシニア地溝を風吹きわたる
ザンビアの銅延べ棒に腰おろしコカコーラ飲みし国境の町
足立たば雪くわましを子規の夢三浦雄一郎エヴェレストに立つ
 
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私はこの2,3年すっかり昼寝がくせになってきた。「昼寝が上手になったわね。」と妻に言われる。
昼寝が上手いと言われて返事のしように困るが、<華胥の国に遊ぶ>と言えば恰好がつく。
 
「列氏」にある言葉だそうだ。さすが先覚はいい言葉を知っている。
 

2016.02.03

「蠣崎波響の生涯」

先に「夷酋列像」にふれ、「蠣崎波響の生涯」(中村真一郎)なる著述のあることを知ったと書いた。
古書価格で5500円と知り入手を諦めた、と書いた。
 
伊東図書館のネット検索で探したが無い。
それで県内図書館の相互利用検索で探したらあちこちにある。
伊東図書館に出掛けて利用を申し込んだら、ごそごそしていて、「うちにありました」と出してきた。
どうやら「蠣崎」の字が難しくて誤字で登録されていたらしい。
 
出てきたのは写真のように大きくて部厚い大著であった。
A5判というのだろう、685ページもある。
 
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1984年北海道新聞の記者が「夷酋列像」がフランスのバルビゾン美術館にあることを伝えた。それまで日本人の誰もが知らなかった。
中村真一郎この時66才。若きより波響に関心を持ち、この時点で数百点の資料を集めていたが未だ「夷酋列像」を観たことがなかったという。
中村は驚喜してこの著にかかり、1989年新潮社より刊行した。
 
私にはとてもこの大著を読み通す気力はない。
 
たまたま宇江佐真理に「蠣崎波響」なる一篇があることを知った。
「桜花を見た」という中篇集の中の一篇である。現在文春文庫になっている。
宇江佐氏については世話物の時代小説を書く人、という程度の知識しか無く、何故蠣崎波響かと思ったが、氏は函館出身で現在も函館在住という。
 
軽く読了した。
非常に抑えた筆致の好著であった。
当然中村氏の大著も読み込んでの作品であろう。
 

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