2016.11.01

南瓜乞食

~~~南瓜乞食~~~
どうにもハロウィン騒ぎが気に入らない。
 
私はそもそもキリスト教が気に入らない。
妻と縁談があった時、青学卒というので「クリスチャンじゃないだろうな」と仲人に念を押した程度に嫌いである。
 
あのハロウィン騒ぎの馬鹿どもを貶める何かいい呼び方は無いものかと考えた。
1つ考えたのが<イエス乞食>である。
11世紀西欧から十字軍(Crusade)と称して中東に攻め込んだキリスト教徒を、当時文化レベルの遥かに高かったイスラム教徒は一体何事なのか理解出来なかったらしい。
攻めて来たのは少数の騎士と乞食の大群であった。その乞食連中が訳もわからず暴虐を働いた。
100年後サラディンが現れるまでイスラムは団結して戦うこともなかった。
さらに100年後ルイ九世がバイバルスに敗れて十字軍が終焉するまで、イスラムは一貫してキリスト教徒の意図を理解せず、この200年間のイスラムの歴史に「十字軍」の言葉は無いという。 (「アラブが見た十字軍」アミン・マアルーフ)
 
それでハロウィン馬鹿を<イエス乞食>と名付けたのだが、どうもまわりくどい。
 
そうしたら「Facebook俳句会」で次の句を見付けた。
<外つ国の南瓜は笑う十月尽>  西川洋
 
 
これは西川洋という人の作句と書である。
大いに気に入って、ハロウィン馬鹿を<南瓜乞食>と呼ぶことにした。
ご唱和をお願いします。
 
~~~本場の南瓜~~~
 
これはイギリスの我らが義理の孫の写真である。
この南瓜のデザインが素晴らしい。さすが本場である。
 

2016.10.30

ネットに繋がらないPC

ここ数日、PCがネットに繋がらず不自由でありました。
幸いスマホは4Gで繋がるので、最低限の連絡は保てた。
 
ネットに繋がらないPCとはまことに不自由なものである。30数年前のPCを思い出した。
と書き出せば、まさに老人の繰り言になるから止めよう。
 
しかし2件だけ書かせてもらおうか。
1.最初のパソコン
  私が最初に購入したパソコンは「コモドールPET2001」であった。1980年のことである。
  国産のNEC「PC8001」が売り出されたのが1979年9月であったが、私の使いたい多変量解析のソフトが無かったのでコモドールにしたのだった。
  因みに当時の記憶媒体はカセットテープであった。
 
     
     コモドール PET2001  右の黒いのがカセットリーダー
 
     
     NEC PC8001
 
 
2.パソコン通信
  当時はまだwww が無く、パソコン同士は電話回線で繋ぐのであった。皆、高い電話料金に泣いていた。
  そういうところへNECとか富士通、沖電気など全国に通信網を持つ通信会社が自社回線部分を使わせるようになった。
  我々はその使用料と局までの電話料で済むようになり費用は劇的に改善された。パソコン通信の時代である。
  最大のNECはbiglobe の名前で、富士通はNifty の名前で売り出した。
  私はbiglobe の中で「PCオーシャンヨットクラブ」を開設してSig-opを務めた。いうなればMCである。毎晩1500~3000のアクセスを誇った。
 
  1988年だったか、NEC本社で初めての「Sig-op」会議が開かれた。当時まだ画像送付が無く、みんなお互いに顔を知らず、初対面に感動したものだった。
  その席で私は最年長ということで乾杯の音頭をとらされた。思えば53才であった。
 
 
     
  当時の書き手の1人にカロメロさんがいた。 潜水艦乗りで、上がってくると猛烈な勢いで海の話を書くのだった
  ヨットはコーチヤにあった「揺砂」(オーナーは横須賀の教官)に乗っていた。 「揺砂」・・・いい名前だ。
 
老人の繰り言は尽きない。

2016.10.26

松尾と平尾

∞∞∞2016/10/23∞∞∞∞∞∞∞
~~~ノーサイド~~~
平尾誠二が亡くなった。痛恨哀惜の極みである。
 
TVで追悼番組をやっていた。
大学3連覇を成し遂げた平尾主将の同志社が、松尾監督率いる新日鉄釜石の全日本7連覇を賭けた試合への挑戦を映していた。
壮烈な試合であった。足を痛めていた松尾は麻酔を打って病室からの参戦であった。
平尾は松尾の居る釜石に勝ちたかった。
釜石が勝った。
 
私はこのTVで知ったのだが、7連覇に沸く新日鉄の祝勝会の会場に平尾と大八木が訪れ、勝利の祝いと対戦へのお礼を述べたという
泣ける。
 
翻って我が身を省みるに、オイルメンで勝って定期戦で勝って、誰に報告することも感謝することもなかった。勝って当たり前の顔をしていた。
対戦相手があり、多くの後援者あっての勝利だったのだろうに。 今にして慚愧である。 
 
 
 

∞∞∞2016/10/24∞∞∞∞∞∞∞
~~~服飾談義~~~
わが街伊東にはデパートもイオンモールも無い。
それをいいことにわが服装は次々とユニクロ化を高め、ついには上から下まで全部ユニクロという仕儀に立ち至った。
安くて丈夫で手軽で言うことなしだ。こうなったらもう恥も外聞も無い。
 
唯一問題はサイズであった。
伊東のユニクロにある最大サイズXLではどうも不足なのだ。買っても気に入らずすぐに着なくなる。
その分はLLビーンとかエデイーバウアーの通販に流れた。
 
そうしたら先週の新聞にユニクロ大きいサイズの通販広告が出ていた。4XLまで在るとある。
試しに2XLと3XLを注文したら、翌日届いて、2XLが具合がいい。
ふむ。 これでまたユニクロ化が進む。
在地方、年金老人の服飾談義である。
 
 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
平尾より28歳年上の  森下一義
 

2016.10.22

とりかぶと

∞∞∞2016/10/21∞∞∞∞∞∞∞
~~~庭の花~~~
秋の庭です。
 

​カッシア(アンデスの乙女)
 

​紫苑
 
ローズヒップ
 
姫リンゴ
 
柿の紅葉
 
~~~ニーチェ~~~
62年前。大学に入学した時のクラス担任が植田敏郎先生で、ドイツ語の副読本にニーチェ「ツアラツストラかく語りき」を宛がわれた。
訳本には竹山道雄訳の新潮文庫本があった。
 


遊び人の私は結局ドイツ語も身に付けず、ニーチェを究めることもなかった。
ただ竹山道雄の名文に酔った。
竹山道雄は1903年生まれのドイツ文学者、評論家、小説家、東大教授、芸術院会員で、評論家としては左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。小説には「ビルマの竪琴」がある。
とにかく名文家である。
 


「ツアラツストラ齢三十の時、故郷と故郷の湖を去って、山に入った。ここに、彼はみずからの精神と孤独を享受して、十年にして倦むことを知らなかった。さあれ、ついに彼の心は一転したのである。―ある朝、彼は暁の朱と共に起き、太陽の前に進み出た。 ・・・・・・・・ かくてツアラツストラの没落は始まった。」
今も口に付いて離れない。
 


今般、気鋭の思想家佐々木中の新訳が出ていることを知り、購入した。
両者の訳文をここに並べようと思ったがやめた。それほどみんなの興味を惹くことではない。
 


​​
 
懐かしい古本を取り出して写真を撮って並べた。 私には比べるまでもなく竹山訳が愛しい。
 
∞∞∞2016/10/22∞∞∞∞∞∞∞
~~~とりかぶと~~~
 
 
秘すれば花。
私が大事に隠して育てているとりかぶとの花である。ちょうど咲き始めた。
これはいざという時、自らの生死の決定権を自らで握っておくための大切な手段である。
 
人には見えないように、自分が這ってでも行ける場所に、そっと植えてある。
問題は効用をテスト出来ないことだ。
 
~~~花の苗フリーマーケット~~~
伊豆ガーデニングクラブ の「花の苗フリーマーケット」であった。 年2回開催で35回目という。
 
 
 
妻が福島の知り合いの作品を委託販売している
 

​しょぼい我が店
 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
寝冷えから半月も体調不良の 森下一義
 

結婚記念日

∞∞∞2016/10/18∞∞∞∞∞∞∞
~~~植木屋打合せ~~~
先日依頼された別荘「M邸」の庭園デザイン&管理について、実際に作業を実施するH園芸と打合せを行った。
見積もりが出たが、ちょっと高い。
これでは「M邸」から発注が出るかどうか判らない。
 
H園芸はIT関係に行っていた息子が戻って家業を手伝うとかで張り切っている。
 
∞∞∞2016/10/19∞∞∞∞∞∞∞
~~~結婚記念日~~~
10月20日が52回目の結婚記念日であるが、明日は琥珀の客があるので今日会食した。
今井浜のホテルで2500円のランチである。
 
ホテルの前の浜でサーフィンをしていた。
 
~~~野中洋ラン店~~~
帰途、懇意にしている洋ランの生産農家に寄った。
熱川から山に登ったところで、低地より気温が低くて良いそうである。
 
 
私と妻の両方の母と、その他幾つかを送った。
 
 
 
 


​~~~M邸~~~
帰ったらM邸から返事が来ていて、やはり高いようだ。
 
営業は難しい。
 

2016.10.17

村上春樹を読めない理由

∞∞∞2016/10/15∞∞∞∞∞∞∞
~~~村上春樹を読めない理由~~~
私がどうしても村上春樹を最後まで読み通せない理由を自分でも判らないでいたのだが、やっとその理由を教えてくれる評論に出会った。
たまたまネットで出会った、<村上春樹のノーベル賞落選が「既定の事実」だったホントの理由>という評論である。
 
筆者は黒古一夫という文芸評論家で、これまで見たことも聞いたことも無い人だった。
調べたら1945年生れの日本近代文学研究者、文芸評論家、筑波大学名誉教授で、そんな偉い人の名前も知らない私が悪い。
 
彼の文章を抜粋してご紹介する。
―前略― つまり、高度に発達した資本主義社会(都会)に生きる人間の「喪失感」や「疎外感」、「孤独感」、「絶望感」を描くことに成功し、若者を中心に世界中に多くの読者を獲得した村上春樹であるが、ではそのような「喪失感」や「孤独感」などを内に抱いて生きる若者たちに対して、村上春樹の文学はどんな「生きる指針・ビジョン」を示してきたのか、ただその文学世界に存在するのは現状を「消極的」に追認するだけのものだったのではないか、ということである。

1994年にノーベル文学書を受賞した大江健三郎は、そのような村上春樹の文学的傾向について「村上春樹の文学の特質は、社会に対して、あるいは個人生活のもっとも身近な環境に対してすらも、いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたっています。その上で、風俗的な環境からの影響は抵抗せず受身で受けいれ、それもバック・グラウンド・ミュージックを聴きとるようにしてそうしながら、自分の内的な夢想の世界を破綻なくつむぎだす」(傍点原文「戦後文学から今日の窮境まで」

村上春樹自身も、このような現在もなお有効な大江評価と同じようなことを、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(96年刊)の中で語っていた。村上春樹は、1995年に起こった阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、大江が言う「(社会に対して)能動的な姿勢をとらぬという覚悟」と同じ意味の「デタッチメント(社会的無関心)」であった文学傾向を転換させ、今後は「コミットメント(社会との関わり)」を主題にした作品を書く、と宣言していたのである。しかし、試みは壮大だったが結果は「失敗作」となった『1Q84』(1~3 09~10年)や、これもまた多くの批評家に「失敗作」と断じられた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や連作集『女のいない男たち』を見ると、60代になって村上春樹はまた初期の「デタッチメント」的作品に本卦還りしてしまっていて、「転換」は実現しておらず、その「迷走」ぶりこそノーベル文学賞から遠ざけられた原因になっているのではないか、と思わざるを得ない。

また、「エルサレム賞」の受賞式でパレスチナ(弱者)とイスラエル(強者)との争いが絶えないイスラエルに出掛けて行き、「壁=システム・権力(強者)」と「卵=個人(弱者)」との関係において、一人の作家として自分は「卵(弱者)」、つまりパレスチナの側に付くと言いながら、その後パレスチナとイスラエルの紛争(戦争)に関してどんな発言もせず行動もしない在り方や、東日本大震災(福島第一原発の爆発事故)直後の「カタルーニャ国際賞」の受賞スピーチの中で、それまでの反核運動を否定するような「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と断じながら、その後のフクシマの事態や原発再稼働問題について沈黙を守り続けてきたその「核」に対する姿勢も、村上春樹の「言行不一致」としてノーベル文学賞(候補)作家に相応しくないと判断されたのではないか、と思わざるを得ない。

更には、拡大する「貧富の格差」など様々な問題を抱える「日本」の作家でありながら、その作品世界が「日本の現実」に根差していないのではないかという問題もある。日本初のノーベル文学賞授賞者になった川端康成の文学が、あくまでも遅れて近代化した日本の自然と芸術(文化)との関係を考えざるを得なかった日本人の苦悩と哀しみを主題にしていたことを思い起こすと、村上春樹文学の「無国籍性」(世界文学の性格を持つ、とも言えるが)こそ欠点=弱点なのではないか、思わざるを得ない。
村上春樹のノーベル賞待望論に沸くネット上で、何故彼がノーベル賞に値するかを論じた文章を見たことが無い。
あるのは<何か国語に翻訳された><世界で累計何万部売れた><賭け屋で何番>ばかりである。
私は読んでないから論じようがないが。
 

~~~ヴィールス性胃炎~~~
夜中に猛烈な下痢をした。その後止まらない。
先日寝冷え?で行った医者に診せたら「ヴィールス性胃炎だろう」という。
まったくあてにならないと思うが、そのまま放っておけないのが高齢者の弱みである。
若い頃ならそんな診断は馬鹿にして放っておけば納まったものだが
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
医者に弱みを見せた  森下一義

2016.10.16

「庭園に死す」「天皇の公務」

∞∞∞2016/10/12∞∞∞∞∞∞∞
~~~庭園に死す~~~
私がこれまでに読んだガーデン関連図書の中で、最も感銘を受けたのは「庭園に死す」(野田正彰 春秋社 1994/3)である。
以前に書いた感想文を再録する。
 
著者野田正彰は人間の精神形成を研究してきた精神病理学者であり、その名も高き比較文明論の論客である。そして京都造形芸術大学元教授でもある。なぜ芸大教授なのか。この著書あるが故か。
人間は両親から遺伝子情報を与えられて生まれてくる。そして母親との接触から始まり、多くの人との接触を通じてその社会の文化を受け取り精神形成を行う。
それでは風景という刺激は精神の形成にとってどんな役割を果たしているのか。
著者の庭園への関心はここに始まるという。
 


その関心は半端ではない。<あとがき>によれば彼の庭園の知識は「造園の歴史」「日本の古庭園}(いずれも岡崎文彬)によって得たというが、前者は上中下3巻(各巻17千円)、後者は上下2巻(58千円)の大冊である。
あまりの読み返しに 本は綻びてしまい2代目を購入したという。専門分野・精神病理学の本でもこれほど何度も読んだ本はないという。
秀才がそれほど打ち込むのだから半端ではない。
 


本の内容は大きく4つに分かれる。
その1は日本庭園である。50以上の庭を訪れる。さすがに京都の庭は自分の庭を歩くが如くである。京都在住のせいかと思ったが、擦り切れるほどに読み込んだ名著の知識に裏打ちされているのであろう。公開されていない庭園も京都では殆どを巡っている。
京都だけではない。平泉の毛越寺は言うに及ばず福島、鹿児島、熊本、山口、島根益田、三重、大津、静岡と、庭があると聞けば残さず足を運んでいる。そしてきちっとした歴史観、文明史観の上で論ずるのだからなまじっかな庭巡りの本はとても太刀打ち出来ない。
 


その2は現代の都市景観を論ずる。
山裾に修学院離宮が隠れ幡枝に円通寺が佇む比叡山の山頂にミニ・スキー場があることを嘆く。
苗場のホテルをすべて川の手前に建てていたら、人と山との対面はすっかり変わっていただろうと説く。
大阪南港の高架線がこれほどの景色になることを知っていたら、もっと効果的なデザインを考えただろうにと惜しむ。
ランドスケープデザインの世界である。
 


その3は中国庭園である。
日本文化の源流を意識して中国の庭を見ている。
10数ヶ所を巡る。日本の庭園研究家でこれほど中国の庭を見て回った人がいるだろうか。
 


その4はヨーロッパ・イスラムの庭である。
約30の庭を紹介する。ヴェルサイユでは周囲5キロの大カナルを半日かけて歩いてまわる。アルハンブラでは宮殿の中の修道院に滞在し4日間を庭鑑賞に費やす。
景色が人間の精神形成にどう働くかを考える人の庭巡りだから、生半可な庭巡りではない。
まして好きな世界で著者独特の名文は時に美文に亘る。
 


掲載された百数十葉の写真は4-5枚の例外を除いてすべて著者の撮影によるという。構図といい、焦点深度といい、撮影の季節といい、とても素人の写真ではない。
学者の旅先なのだから特別な機材も持っていないだろうに、脱帽するのみである。
 

 
世のガーデン記事、庭園書籍の編集者たちはこの本の存在を知っているのだろうか。
知っていたら新たな本の編集に絶望するに違いない。
 




 
∞∞∞∞2016/10/13∞∞∞∞∞∞
~~~村上春樹~~~
2012年3月、吉本隆明が亡くなった時、私は<1冊も読んだことが無い>と書いた。
左翼の教祖とも目された吉本の著作を1冊も読んでないとは、多少ともインテリと目されるであろう私にとっていささか気が引けることではあった。
そこで<ゾウリムシ論>を書いた。
 
ゾウリムシは単細胞生物である。
外界に対して、それが自分の体内に取り入れられるか入れられないかの反応しか無いのだという。
私が吉本を読まなかったのはゾウリムシ反応である。
 

いま私は村上春樹を1冊も読んでいない。
新刊を買ってきたこともあるし図書館で借りたこともある。
ところが1冊として最後まで読み切ったことがない。途中で読みたくなくなるのである。
私のゾウリムシ反応である。
 
∞∞∞2016/10/14∞∞∞∞∞∞∞
~~~天皇の公務~~~
 
雨師(うし)として祀り捨てなむみはふりに氷雨は過ぎて昭和終んぬ> 歌人・山中智恵子
 


昭和天皇の棺が黒い馬車に乗って東京の街を進むとき冷たい雨が降っていた。
 


沢口芙美は次のように解説する。
 

もともと王とは雨師(レインメーカー)であった。呪術によって雨をもたらす力を持つ者が、古代では即ち王であった。雨を降らす力がある間彼は王であるが、その力が失せた時王は殺され、新たに呪力を持つ者が王となった。

 


呪術に基づく古代王権の名残を天皇制は引き摺っている。少なくとも昭和天皇は宗教的な力を強調された時期があった。そうであれば、その天皇の死は雨師として祀り捨ててしまおう。雨師の最後を飾るように氷雨が降り、昭和は終わった。 一首はこのような意味であろう。

 


天皇が現人神として存在した時期に青春時代の重なる作者にとって、天皇の存在は重くのしかかっていたに違いない。そのような時期に生きた自分の人生をも込めて、「祀り捨てなむ」と言い切ったのだろう。

 


昭和が終わった時、多くの昭和挽歌がうたわれたが、天皇制の深みにまで降りてこう歌った人は他にいなかった。私はこの歌を読んだ時心が震えた。

 


一連に次歌がある。

<そのよはひ冷泉を超え賢王と過ぎたまふ、そよ草生(ひと)を殺しき>

 


     
 

私も心が震えた。

 


皇室典範には雨師の仕事をどう書いてあるのだろう?

 



琥珀到着

∞∞∞2016/10/09∞∞∞∞∞∞∞
~~~半寝~~~
寝冷え?がすっきりせず、1日ごろごろしてベッドと食卓で過ごした。
うちの老犬と同じである。
 
 
∞∞∞2016/10/10∞∞∞∞∞∞∞
~~~1日司書~~~
午後から頑張って当番になっていた「癒しと憩いのライブラリー 」に出掛けた。
「癒しと憩いのライブラリー 」については更めて書くが、伊東市内のゴルフ場「サザンクロスカントリー」内の私設図書館である。
2年前から月に2回ボランテイアで1日司書を務めている。
すべて寄贈図書による図書館で、私もガーデン関係の図書を寄贈した。
 
 
 
真ん中がガーデン関係の棚で、この8割が私の寄贈本
 
 
∞∞∞2016/10/11∞∞∞∞∞∞∞
~~~琥珀到着~~~
妻のやっている「琥珀磨き体験工房・アトリエ・ブルーアンバー」のために注文していた琥珀原石が届いた。
 
 
これはドミニカのブルーアンバー原石である。
いつもこんなに無造作に送ってくる。
売り物になるのは3割か。1個3000円程度で売る。
 
 

2016.10.08

寝冷え?

∞∞∞2016/10/7∞∞∞∞∞∞∞
~~~寝冷え?~~~
朝、少し下腹が張っている感じがした。
犬の世話をして、朝食の時間になったが食欲が無い。自己診断では寝冷えであった。
どうにも体調優れず、また寝込んでいるうちに吐き気がしてきた。でも吐けない。
これはいけないと近くの病院に行った。
血液をとられ、レントゲンをとられた。
7°1分の熱があり、胃に腫れがあった。
なんとか炎でしょうと言われたが聞いたことが無い。
3種類、5日分の薬をもらった。
8日朝になり、吐き気は収まったが熱はまだ少しあるようだ。6°4分。
鬼の攪乱ならぬゴリラの攪乱である。
~~~数字~~~
私は2か月に1度検診に通い、薬をもらっている。
薬は逆流性胃炎と胃腸薬である。それと用心に血液サラサラの薬ももらう。
幸いその他の成人病にはご縁が無い。
医者が数値を見ながら「いいですね」というが、私はその数字が判らない。
余計な数字は覚えないことにしている。悪ければ医者が言うだろう。
これが私の<見ぬ者清し>の術である。
血圧だけは判る。だいたい135―75である。
∞∞∞2016/10/8∞∞∞∞∞∞∞
~~~別荘検分~~~
3度訪ねても場所が判らなかった別荘のオーナーが出て来たので落ち合って現場に行った。
2階に4室の洋式ベッドルーム、他に和室が4室。
まことに巨大な別荘で、「何の目的でこんな大きな家を?」と聞いたら、「3年前に安く買ったんです。」という。
白髪の後期高齢者で品のいい年寄りである。
明らかに利殖目的の購入であろう。
最近客付きがいいらしく、庭にも手を入れる気になったらしい。
「こういう広い場所も他に得難いからニーズはあります。」
とりあえずデザインとメンテの見積もりを出すことになった。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
森下一義  a sailor and a gardener

2016.10.05

ノーベル賞の研究テーマ

~~~ノーベル賞のテーマ~~~ 
皆さん、人のやらないことをこつこつと20年も研究するとノーベル賞になるかもしれないそうだ。
実は私にも1つ抱えているテーマがある。
それは<見ぬもの清し>の研究である。
 
遠く南海の果ての台風が大きい大きいと騒いで十分な注意を呼びかける。
これが幸せか?
何も知らないでいて「明日大雨ぞ」と言われる方が不幸せの総量は少ないのではないか? 気象庁が知っていればいいではないか。
かって癌は本人に告知しないものであった。
今は当然のように告知して覚悟を迫る。これが幸せの量を増やすか
 
「知らぬが仏」「情報公開」・・・など概念を議論するのではない。
何らかのメジャーを使って幸せの量を計るのだ。
「そんなこと無理よ」と万人が言うだろう。その無理の先にノーベル賞がある。
まずはメジャー探しである。
 
私は<見ぬもの清し>とすることによる社会の幸せの総量を計ってみたい。
20年続けたら何か計れるだろう。天晴れ101才のノーベル賞受賞者になる。  アハハ
 
 
~~~ロビーの居場所~~~
もともとそれほど躾がよくないのに加え、目が見えなくなったのと肛門手術により排泄の始末が手に負えなくなっている。
 
夜間の徘徊場所を台所と納戸に区切っているが、これから寒くなるとそうもいかない。
温かい食堂で寝させるように、とりあえずソファーを2階に移動したが大仕事であった。
 
老老介護である。
 
 
~~~ドメイン更新~~~
今日は「黒潮丸の庭園リスト」のサイト更新料を送金した。
ドメイン維持が1280円/年
サーバー使用料が3150円/年   合計4430円/年
 


1つのサイトを維持するのに年間4430円掛かる。
私は現在5つのサイトを持っている。 中古艇、琥珀、ガーデンデザイン、庭園リスト、庭案内
源氏香や大漁旗はとっくに閉鎖した。
ブログは別である。
 


もうサイト管理は古風なのは判っているのだが身軽に動けない。
 

「さくらの里」の石舞台

∞∞∞2016/10/2∞∞∞∞∞∞∞
~~~正木ゆう子~~~
<いつの世か鯨でありし寂しかりし>  正木ゆう子
 
いつだったか、ちらっとこの句を見て痺れたのだった。
俳句の雑誌は見ないのでTVか新聞で見たのだろう。
 
調べて、他にこのような句のある人と知った。
<かの鷹に風と名付けて飼い殺す>
<双腕はさびしき岬百合を抱く>
<水の地球少しはなれて春の月>
日曜の朝はTVで短歌と俳句を観る。今朝の俳句選者は正木ゆう子だった。
眼前にご当人を観ていると、なんか胸がドキドキする。
 

 
~~~伊豆高原クラフトの森Fes~~~
毎年「さくらの里」で開かれる「クラフトの森フェスティバル」に行った。
このイベントはよくあるフリマと違って参加するのにクラフト作家であることの審査がある。
販売は自作品に限られ、仕入品、委託品の販売は一切禁止である。
 
気に入って2個目を購入したジュエリーハンガー  材はカイヅカイブキだそうだ
 
毎回森本先生が巨大な花オブジェを飾った石舞台に何も無いのが悲しく、淋しい。(2015/3 逝去)
思えばこの石舞台で先生の作品に遭遇し、感動して弟子入りを志願したのだった。
それから2回、私も参加させて頂いた。
 

​2014/10/04 私の作品
 

​2016/10/02
 
~~~迷子~~~
帰路、あるペンションを訪ねた。
私のホームページを見て庭のデザインをアドバイスして欲しいと頼まれた。
そのオーナーは業者に依頼して貸し別荘に出している。そこそこ利用はあるらしい。
先日行ってみたら庭がひどいのでアドバイスを欲しい、との依頼である。
オーナー不在のペンションを訪ねて2度行ったが見つからない。今日で3度目である。
今日も判らなかった。遠笠山道路のレストラン「グラナダ」から下りたあたりである。
 
∞∞∞2016/10/03∞∞∞∞∞∞∞∞
~~~朝日歌壇・俳壇~~~
月曜の新聞はまずここを見る。
 
佐々木幸綱選
<負傷兵の一人も居ない日本の選手団なりパラリンピック>  東久留米市・関沢由紀子
 
金子兜太選
<「露の世」と生意気言ふな傘寿のくせに>   いわき市・馬目空
 
~~~整形外科~~~
月曜と金曜に通うことにしている。
今朝も一番乗りであった。
駐車場に1台の車も見えない。これが上の道路まで一杯になる。
 

2016.10.02

ロビーの手術

∞∞∞2016/09/30∞∞∞∞∞∞∞
~~~整形外科~~~
妻は年来腰や股関節の痛みで医者を経巡っている。
東京、川崎、熱海、いろいろと通うが、このところ富戸のまさき整形外科が合っているようだ。
AKA療法とかいって整体医みたいなものらしい。
わが家から海岸の道を海を見ながら15分走る。
7:30に出て7:45に着くと一番乗りだ。
8:00から番号札を渡されて、8:30から診療開始、8:45には終了する。
自宅に戻って9:00。
 
妻は運転歴は長いが、70才を過ぎてから怖がって運転しない。
よって私がアッシーを務める。週2回通う。
 
~~~自彊術~~~
毎週金曜日、自彊術の教室に通っている。一種の健康体操である。
9:30同じ道を7分走って富戸コミセンが会場である。週に1度この7分だけ妻が運転する、運転を忘れないために。
何といっても素晴らしいのは教室の窓からの眺めだ。
伊豆大島から伊豆諸島が見渡せる。眼下にはイルカ追込み漁の富戸漁港である。
 
 
体操をしているその視線でこの景色が見えている。
自彊術については追々述べる。
 
 
帰りに妻が駐車場で銀杏を拾った。
 
~~~伊豆ガーデニングクラブ 幹事会~~~
午後から伊豆ガーデニングクラブ の幹事会であった。
上期の活動実績報告、下期の行事予定の調整が主な議題だった。
順調に運んでいる。
 

 
∞∞∞2016/10/01∞∞∞∞∞∞∞
~~~祈り~~~
メイ・サートンの<祈り>について考えようと思うが、私にはこういう形而上の思考についての訓練が無い。
いきなり出てきたのは「切りとれ、あの祈る手を」のフレーズだった。これは佐々木中のベストセラーのタイトルである。
この書の内容が<祈り>を思い出させたのではない。そもそも内容は覚えていない。
ただ単語からの連想である。
 
佐々木中。1973年青森生れ。作家。哲学者。東大、院卒。文学博士。京都精華大学人文学部教員。専攻は哲学、現代思想、理論宗教学。
 


<彗星のように出現し、透徹した論理と華麗な文体で思想・文学界を驚倒せしめた孤高の怪傑、佐々木中。>
これは「足ふみ留めて」の帯に書かれた惹句である。
多分この惹句に惹かれて何冊かを読んだのだった。
 
「切りとれ、あの祈る手を」(河出書房新社 2010年)
「九夏前夜」(河出書房新社 2011年)
「足ふみ留めて」(河出書房新社 2011年)
「この日々を歌い交わす」(河出書房新社 2011年)
 
 
何故か私のアンテナに引っ掛かり「切りとれ・・・」以下の数冊を読んだ、いや”読んだ”とはとても云えない、”ページに風を入れた”とだけ云っておこう。
私には彼の著作を殆ど読解出来ない。そもそも主著である「夜戦と永遠」(600ページ)に手を出さないのは”風を入れる”ことすら出来ないだろうと判っているからである。
判らないが、読んでいて楽しい。彼の言葉は全編が詩である。詩集を繙くが如く風を入れた。
すっかり離れていたが、今日<祈り>ついでに思い出して調べたらその後10数冊の本を出しているようだ。しかしもう読む気は無い。
 


もう1つ思い出したのは大和田政也君が佐々木中を読んだと言っていたことだ。すぐその後に亡くなったので感想を聞くことも出来なかったが。
大和田とはどこかで同期している友人だった。新宿余丁町抜け弁天に彼を訪ねた頃を思い出す。
 
~~~ロビーの手術~~~
朝食を抜き、11時に病院に連れて行った。

レントゲンを撮り、血液検査をして手術に踏み切ることになる。
預けて帰宅した。
 
17時30分、引き取りに行く。
手術はうまくいったという。
肛門部のみで大腸内など他所への転移は見られないという。
 
うまく収まってくれればいいが。
いずれにしろもう長い寿命ではないが。
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

2016.10.01

ロビーの悪性腫瘍

∞∞∞2016/9/29∞∞∞∞∞∞∞
 
~~~ロビーの病院~~~
わが家の犬のロビーを動物病院に連れて行った。
犬種はワイヤーフォックステリヤ、14才、体重10Kgの雄犬である。
2016/1/21 撮影
 
実は昨年8月に首の周りにぐりぐりがあるのを見付け、医者に「悪性腫瘍」と診断され抗がん剤を嚥んでなんとか抑え込んだのであった。
服薬を続け、ぐりぐりは消滅したが、耳が遠くなり、目が殆ど見えなくなり、足が弱って衰えが甚だしい。食欲が落ちないのだけが救いであった。
今年7月に肛門に異変が生じ、8月初め腫瘍を摘出した。
そして今日また肛門に腫瘍が見つかった。近く手術である。
哀れであり、妻と共に悲しんでいる。
 
~~~歯医者~~~
毎月1回、歯の手入れに通っている。
おかげで殆ど自分の歯でしっかり噛んで食べている。
 
私は歯並びが悪い。
結婚した時、私の母が妻に謝ったという。
「ごめんなさいね。何度も医者に連れて行ったのだけど、どうしても嫌だと暴れて歯医者に触らせなかったの。」
今は丈夫な歯を授けてくれた母に感謝するのみである。
 
~~~祈り~~~
「82才の日記」で次の一節を読んだ。
<わたしは個人的には神を信じないけれど、祈りはとても価値のあるものだし、可能な限り祈りたい。>
西欧人にとって<神を信じない>というのは、我々が<仏を信じない>のとは違う意味合いがあるのだろうが、そこで<祈る>とはどういうことだろうか。
少し<祈り>について考えてみたい。
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

2016.09.29

「82才の日記」メイ・サートン

「82才の日記」(メイ・サートン)を読んでいる。
メイ・サートンについては6年前に記事を書いているので添付する
 
いま私がこの書を読むのは、自分が81才になって、82才の日記の書き方を学びたいと思ったからである。
メイは1993年から4年にかけての1年間この日記を続け、翌1995年83才で亡くなった。
及ばずといえ私もいささかでも自らの末期を整えたい。
なおメイ・サートンを初めて読む方には、この書ではなく「独り居の日記」「海辺の家」などをお勧めする。
 
これまで「黒潮丸通信」は何かトピックを見付けて記事を書いてきたが、これからは我が末期に至る日常の記録として書くことにしよう。
願わくばその当日に至るまでわが硯海の水の枯れざることを。
 

 
∞∞∞たまゆら-とんでん-双子ニレの家 2010/3/19∞∞∞∞∞∞∞

昨年3月群馬県渋川「静養ホームたまゆら」の老人の事故死、そして今月札幌「グループ・ホームみらい・とんでん」の老人の事故死で、私は「双子ニレの家」を思った。

メイ・サートンの小説「今かくあれども」の舞台となったナーシング・ホームである。

 


 

<私は狂気ではない。年をとっただけだ。・・・・

私は老人の強制収用所にいる。ひとが、親や身内をがらくたのように捨ててゆくごみ溜めにいる。

兄のジョンが私をここに連れてきたのは、2週間前のこと。もちろんはじめっから、兄と同居できないことはわかっていたが、心臓発作を起こしたあと、私は家を畳むほかなかった。・・・・>

 


 

生涯独身で高校の数学教師だったカーロは心臓発作で身体不自由になり、ナーシング・ホーム「双子ニレの家」に入居させられる。
ホームは看護婦あがりの40代の女性とその娘が運営している。ほかに殆ど認知症の10数名の老人が入居している。
ここでは彼女は異端である。インテリであるが故に異端である。
老人たちとはほとんど接点がない。運営者のハリエットがカーロを憎むのである。外部への手紙を握りつぶし、稀な訪問者も面会不能と追い返す。

 



カーロは次第に壊れてゆく。
せめて正気を保つために隠して日記を書く。
そしてタバコのライターの油を溜め込む。ホームを焼くために。
どこまでが正気で、どこまでが狂気で、どこまでが痴呆か。

 


 

~~~~~~
メイ・サートンがこの小説を書いたのは1973年頃という。この時代のアメリカの老人施設はこのようであったという。
現在は、どのようになっているか?
「たまゆら」や「みらい・とんでん」と異なるところあるのか?

 


 

~~~~~~
「たまゆら」や「みらい・とんでん」を報ずるマスコミの口調は設備の不備を咎め、法律の不備を追求し、運営者の怠慢を責める。
たしかにその告発がなければ世の中の改善はないであろう。
しかし私は「たまゆら」「とんでん」の現状が国力であり民度だと思うのだ。私はその国力の中で老いるしかない。

 


 

~~~~~~
メイ・サートン(1912-1995)はベルギーに生まれ、第1次世界大戦を避けて一家でアメリカに移住する。米国籍。父はハーバード大教授。

ヨーロッパに学び、女優を目指し、劇団を主宰し、そして作家・詩人となる。バージニア・ウルフ、ジュリアン・ハックスレーなどとの多彩な交友があり典型的な東部エスタブリッシュメントである。

 



私はたまたま「独り居の日記」「海辺の家」「夢見つつ深く植えよ」「私は不死鳥を見た」「総決算のとき」「今かくあれども」を読んだ。


2016.09.24

ヘアクリームのこと

どうも髪の毛がぼさぼさになって納まらない。
5-6年前から使っている整髪料をよくよく見たら「強力 寝癖直し ヘアウオーター」とあってメーカーは石鹸会社である。
 
これは整髪料ではないのかもしれないと考えて、「ルシド-ヘアクリーム」を買ってきた。
 
使用後の写真である。少しはましになったようだ。 2016/9/24撮影
 
整髪料についてはこんな事件があった。
 
~~~2005/10~~~~~~~~~

​2005/10/04撮影
 
これは何の写真であろうか?
なにやら瓶を顔の横に掲げている。
鏡の前で撮ったので文字が読めるように逆転してある。
「ビオレ」と読める。
1週間ほど前から頬のあたりがガサガサになって気になっていた。思いついてクリームを塗った。ヨット用の洗面袋から取り出して塗った。ところがさっぱり改善されない。
今朝何気なく「ビオレ」の内容を読んだらシャンプーではないか!これでは改善されない道理だ。
 
実は以前にも同じようなことをしている。
 
~~~~04年3月~~~~~~~~
前略
> 加齢により肌に水気が乏しくなり、冬場などがさがさの状を呈する。
> それで稀に(月に数回)セナクリームなるものを顔面に塗布する。保水作用があると いう。
>
> 今朝しげしげとそのクリームを見てみたら、なんとそれはヘアクリームではないか。
> ここしばらく、整髪料を顔面に塗布していたのであった。
>
> なんと云うべきや。
 
~~~~~~~~~~~~
 
人間はかくして老いてゆくのであるか。

2016.09.14

天草(てんぐさ)物語3-ニール号-完

実際にニール号の姿を見てYさんの幻想はますます燃え盛った。
彼の頭の中は<沈船→宝船→引揚げ→億万長者>の夢で一杯だったのだろう。
 


私の考えは違った。
・文化財扱いで引き揚げるには数十億も掛かるだろう。
・役所の許可、地元の同意、関係者の調整、大変なエネルギーが必要だ。
・実行委員会の頭には県知事くらい引っ張り出さないと、
・まず役所まわりだけだって膨大な時間と経費が掛かる。
・それで得るものは決して億万円の儲けではない。
・私はやらないよ。

Fさんも同じような考えだった。
 


Yさんは益々燃える。
町長、漁業組合長、青年部会長、仕事を休んで1人で飛び回るがどこも同調してくれない。
地元としてはこういう手合いは時々現れるので慣れているのかもしれない。
金主でもない風来坊など相手にしないのだろう。
 


ところがどういう伝手を頼ったのかYさんは遂にTVに食い付いた。日本TVが取材に来ることになった!
1989年1月日本TVの取材チームが来て潜り、ニール号を確認した。
勿論現場のリーダーはFさんである。
Yさんの執念の凱歌であった。





 

しかしここまでであった。
話は発展しなかった。

 


1989年5月2~6日、「ウィンデイホリデイ」号で現場に赴いた。


1989/05/03 妻良港外の写真である。中央赤ジャケットがYさん。右が私。
この悲壮なる顔を見よ。
 


こうしてニール号の夢は次第に凋んでいった。
Yさんの失意は甚だしく、遂に日本脱出に至る。
その話はまた別にしよう。   完
 

2016.09.13

天草(てんぐさ)物語2―ニール号

マイボートを伊東に置いていた当時、私の勤務地は丸の内帝劇ビルであった。
私はヨット遊びに社内の同僚や後輩を誘うことはなかった。彼らの出世に障ることを慮ったからである。
 
ヨット仲間はもっぱら当時主宰していた「PCオーシャンヨットクラブ」や舵誌の「仲間募集」欄で募った。
そんな中に稲取のFさんが居た。
彼の前職はプロの潜水夫だった。仕事の現場があまりに危険なので辞めたのだという。当時は稲取のホテルの支配人をしていた。
さらに聞けば彼は日比谷高校出身だという。奥さんは浅草生れ浅草育ちの江戸っ子だった。屈折した人生だとも云える。
彼の家を訪ねたことがあったが高台で眼下に白波の寄せる浜を見下ろす、海の男の理想の家であった。
その時中学生くらいの女の子が、「お父さんもお母さんも狡い。2人はすべてを知ってここに来たのに、私はここしか知らない。」と零した。
彼女は鋭い。今どうしているか。
彼は現在東伊豆町会議員として人並み以上の活躍をしている。いい友人を持った。
 
「ウィンデイホリデイ」号上で雑談をしている時、ふとFさんが<沈船を知っている>話になった。
潜水夫の仕事をしている時、南伊豆妻良港の出口で沈船を見付けたのだという。場所もきっちりと山立てをして記録してあるという。
 
この話に食い付き、夢中になったのがYさんである。沈船引揚げなんて夢ではないか!
実はこの沈船は無名の宝船ではなかった。嵐で沈んだフランス船ニール号として地元では知られた存在で、地元の海臧寺に招魂碑があるのだった。
1874年ウイーン万博に出展後、展示物や最新の織機などの宝物を積んでマルセーユを出帆したニール号は横浜に向かう途中石廊崎沖で嵐に遇い、妻良沖で難破したのだった。
 
 
Yさんはお構いなしである。
国会図書館に行き、国立公文書館に行きと、ニール号に関するあらゆる情報を集め始めた。
そしてとにかく現場に行きたいと言い出した。
 
ここでちょっとYさんの話をしよう。Yさんは舵誌の募集記事をみてやって来た。
ある日曜日の朝、約束の時間より1時間も早く来て伊東漁港の堤防で待っていた。あのちょっとシャイで飄々とした姿を今も忘れられない。
彼が乗ってきたのはアマゾンとかいう1500CCのバイクだった。ヨット経験無しのバイク乗りだった。
そのバイクで年に一度は北海道一周に出る。ある年大学生の息子と一緒に出掛けたが息子はどうしても従いてゆけず、途中でパーティを解いたという。
彼は都内のタクシーの運転手で、当時Gキャブに居たがどこへ行ってもその営業所でトップの稼ぎ上げるという。勘がいいのだ。
ヨットのことも実に注意深く我々の動きを観察し、2度と聞くことはなかった。私が間違ったやり方をしていると間違ったまま覚えられ、赤面したものだ。
私は大学でも出光でも、国会図書館や公文書館に自分の調べものに行った人を聞いたことが無い。
 
 
彼の切迫衝動は抑え難く、88年9月遂に現地へ行って潜ることになった。
この行動のリーダーはFさんである。「ウィンデイホリデイ」のクルー4名で出掛けた。私はこの時は参加していない。
Fさんは思慮深く、現地の宿に泊まり、現地の漁船をチャーターして現場に向かった。いずれ地元の協力を必要とすると考えたのであろう。
 
そして見付けた。
Fさんの見立て通り、水深35メーターの海底に殆ど砂に埋もれてそれはあった。
 
Fさんと海底の写真
Fさんのスケッチ  海底のニール号
 
(続く)
 

天草(てんぐさ)物語1―初島

今日(9/8)は東伊豆町の町議会傍聴に行った。わが旧友F議員が質問に立つことを知ったからである。
質問のテーマは<天草てんぐさ問題>であった。
私がなぜ天草に関心を持つのか、F議員といかなる関係か、語れば長い長い物語である。
取りあえず次の3点に分けて話そう。
1.本日の質問要旨
2.初島
3.ニール号
 
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東伊豆町役場前の金目鯛と江戸城築城石
 
~~~1.質問要旨~~~~~~~~~
伊豆半島の東海岸はところてんの原料となる天草の産地である。
品質の良いことで珍重され、各漁港はそれぞれに厳しい管理で資源を守ってきた。
例えば採取は素潜りに限定し、海女には鑑札が渡されて一般の採取は禁止されてきた。
しかし新規に海女の鑑札を受ける者がなく、遂に今年最後の80才の海女が廃業して1人も居なくなった。
 
この事態を見越して東伊豆町ではアクアラングによる採取を認める特例を定めた。
ところがこれまでの規制があまりに厳しかったため岸に流れ着いた天草を拾ってもいけないという風潮になり、天草採りが地場産業でなくなっている。
せっかくアクアラングを認めても、町外の若者が来て採ろうにも採れないではないか。
地域振興、地場産業発展の観点からすれば、もっと検討の余地がある。
これがF議員の意見であった。
 
~~~~~~~~~~~~
熱海と伊東からほぼ等距離の沖に初島がある。
 
160908hatsushima1
160908hatsushima2lc
 
島の北側の港が主港で連絡船が発着する。
風向きが悪い時のために西側に避難港がある。桟橋とスロープのみで陸上施設など何もない。
いつの頃かここに「フィッシャリーナ」が出来た。そのことは後に書く。
私の忘れ難い思い出はまだ避難港だけだった時代の話である。
 
~~~初島の天草~~~~~~~~~
​1985年頃、私はマイボートを伊東に置いていた。漁港の一角の防波堤にプレジャーヨット&ボートが10数隻、肩身狭く勝手係留していた。
今よりも遥かにマリーナ事情が厳しかった時代である。
私の舟遊びの目的は銚子から熊野灘までのすべての漁港に入港することだった。
勿論伊豆半島、駿河湾、三河湾、五カ所湾では実現している。
 
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​88年5月 初島避難港にて
 
初島は伊東から5マイル=1時間でお気に入りの遊び場だった。
連絡船発着の港の裏側に、風が悪い場合の避難港があった。ケーソンの岸壁が1本。常駐する漁船もない。
着けて、泳いで、買ってきたカツオを捌いて、食べて、飲んで、寝る。他の艇と一緒になることは滅多にない。
自分たちだけの隠し砦だった。
 
ある時、珍しく人気(ひとけ)があった。
岸の網干し場の横に漁師小屋があったのだが、そこに人がいる。女性ばかりだ。7-8人。子供も数人いるようだ。
コンクリートのスロープ一杯に赤い天草が干されている。
夕餉の支度か白く細い煙が上がっている。コンロは七輪か。まさに浦の苫屋の風景である。30年も50年もタイムスリップした感覚だった。
近寄ってみたら海女だった。飛び交う言葉は朝鮮語。韓国の海女だった。
後で聞くと宇佐美の事業家が天草の権利を落札し、韓国から海女を呼び寄せて収穫していたのだという。
韓国が奇跡の成長を遂げる直前の時代だ。
 
160908tengusanet
 
~~~初島リゾート施設とフィッシャリーナ~~~~~~~~~​
初島は田んぼも無く貧しい島である。長らく島内の戸数を限定し、跡取り以外は島を出ることを厳しく守ってきた。
だから都会の風俗が入ることが少なかった。
80年代の終わり頃、島の人に信頼の厚い某氏が島の振興にリゾート計画を立ち上げた。
それまで頑なに外部資本の入島を拒んでいた島民も、その人ならと受入れた。
東京電力やソニーの名前を看板に押し立てたその計画は、立派なホテルを作り上げた。
しかし完成を前にしてバブルは崩壊し、1口5000万円の会員権は売れず、倒産し?、結局現在はExivというチェーンになっている。
島の人の心の痛みは大きかろう。
 
さらに遅れて避難港の横にフィッシャリーナが建設された。どこからどういう政治力学が働いたものか。国の資金が60億も投入されたという。そんなに掛る筈がない。
すべて自前の金で三河みとマリーナを作った私は大いに憤慨したものだ。
いま初島フィッシャリーナを利用する観光客はいない。
 
全国津津浦々で繰り返されたこういう無駄な投資が日本を貧乏にした。
私は島の関係者ではないし島を研究したこともない。ここに書いたのは自分の体験と新聞記事と巷の噂である。
 
080710lm35hatusimaatami_031
88年7月 初島でLM35のサーベイ  黒潮丸
 

2016.09.07

9月の予定

9月に入り、朝夕はやはり凌ぎやすい。
 
~~~9月某日~~~~~~~~~
9月の某日、珍しく老人の予定が3つも重なった。
・出光のOB会
・ボランテイアをしているライブラリーの懇親会
・ガーデニング仲間の箱根ツアー
 
箱根を選択した。
 
~~~2島返還?~~~~~~~~~
岸田外務大臣が9月3日宮崎県日南市の小村寿太郎の墓参りに行ったとのニュースを見た。
私は即座に、安倍と岸田は北方領土問題を2島返還で決着させる腹を決めたと解釈した。
 
小村元外相は日露戦争後の講和会議で一銭の賠償金もとれない条約を締結し、激高した国民は帰国した小村を日比谷公園焼き打ちで迎えた。政府は戒厳令を発令し、解除は2ヶ月後であった。
岸田は2島返還に反発する国民の感情を己が身に引き受ける覚悟を決めたのだろう。
 
~~~ISとイスラム教~~~~~~~~~
「世界史としての日本史」(半藤一利、出口治明)を読んだ。
特に感銘を受けたのは次の2点である。
 
・ISとイスラム教を殊更に絡めてはいけない。ISはテロ集団であるが、イスラム教徒全部をテロリストにしてはいけない。
・「コストを試算-日米同盟解体」(毎日新聞社)によれば、日米同盟をやめて中国に対抗できるだけの兵力を持つと試算すると24兆円/年かかる。戦費ではない、維持費である。
日本の税収は60兆円/年である。
 

景観デザイン―東京港

築地と豊洲の位置を見てみよう。

 
狭い東京港の中で、魚市場=東京卸売り市場が移転するのにもうこれ以上良い立地はあり得ないと思う。
あると言うなら教えて欲しい。
 
それにしてもわが出光江東油槽所はテニスの森になっている。もって瞑すべし。
 
~~~~~~~~~~~~


​豊洲市場完成イメージ図である。もうこのほとんどが完成している。ゆりかもめの「市場前駅」はずっと前から出来ている。
向こう側が晴海ふ頭、東京港の客船桟橋である。
手前が有明テニスの森、われら出光人の汗が染みている。
 
~~~~~~~~~~~~
 
2004年3月に「景観デザイン-東京港」の一文を書いていたのでご披露する。
 
竹芝から見る東京港はすっかり変わっていました。
私がその辺りの海を毎週のように乗り回していたのは15年以上前です。その頃13号地には1棟のビルもなく、砂漠でした。その頃の東京港内のチャートは真っ白でした。
竹芝側も戦後のままでひどいものでした。これが東京の海の玄関か、といつも憤慨してSIGに書いたりしていたものです。
しかし一変していました。美しいかどうか判りませんが、美しそうなビルや橋がありました。竹芝にも昔の竹芝桟橋・日の出桟橋には考えられないようなマスト広場などが出来ていました。いつも乗り着けては昼飯を作って食べた浜離宮も、昔よりきれいに見えました。
西宮・尼崎あたりや大阪北港南港よりよほど良くなりつつあるように思いました。
あの砂漠や利権ばかりの倉庫群からこんな街並みが出来ることを鈴木俊一知事は予見していたのだろうか?
こんなランドスケープデザインを誰かが具体的に描いたのだろうか
考えてみましたが、夢の島から晴海、品川に到るこれほどの大きなスペースのグランドデザインを描くほどのデザイナーはどうしても思い浮かびません。
晴海のターミナルやベイブリッジや品川駅や汐サイトや、個々施設ののデザイナーはいるでしょうが、このグランドデザインは誰が描いたのか?
これがお役所仕事というものの恐ろしさのようです。
http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2004/03/post_5.html
 
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 OfficePCC: usedboat.jp/
森下一義

2016.08.29

豊洲移転

築地市場の豊洲移転が喧しい。
 
それで思い出したのがこの写真である。
 
9211kotooilterminaltoyosugastank_00
 
9211kotooilterminaltoyosugastank__2
1992年(平成4年)11月撮影
出光江東油槽所に着桟する「WindyholidayⅡ」号と私
下の写真の後方左手が東京ガス豊洲工場の跡地である 新築地市場移転予定地
 
出光江東油槽所は昭和20年代に開所した石油基地で、まだ弱小石油商社だった出光の貴重な首都圏の基地としてここからドラム缶を運んだ苦労話を先輩からよく聞かされたものだった。
92年当時には既に閉鎖が決定しており、わが「W・・・」号も翌年には東京湾マリーナから三河みとマリーナに移動が決まっていたので、このクルーズは一種の感傷旅行であった。シングルハンドである。まともに稼働している油槽所ならとてもマイボートは着けられない。
東京ガス跡地が魚市場になるとはこの時は知らなかった。
 
ついでに言えば築地市場内に出光の出張所があり、出入りする漁船に油を売っていた。
私は好きだからよく出張所に行って油を売っていた。中川所長だったかな・・・
 
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Boatmarkkayak150 http://usedboat.jp/
OfficePCC: 森下一義

ゴリラ顔

お盆で、故人の写真に触れる機会が多かった。
写真の無い人もいた。
さて自分の遺影はどれになるのかなと考えた。
 
探してみたがこの1、2年の間に撮った自顔はこの2枚しか無かった。
 
150925yugawarafacebookseminar
パソコン講習会で
 
160816kazujidori2
ベッドで本を読んでいて自撮り 
 
ちゃんとした写真を撮っておかなければいけないと思った。
 
~~~~~~~~~~~~
 
「顔検」というサイトがあった。 http://www.mryossi.sakura.ne.jp/kaoken/
質問に答えると顔を判定してくれる。
それによると私の顔は「ゴリラ顔」だそうだ。
 
検定結果
あなたの顔はゴリラ顔です。
あなたの顔もうそのまんま!ゴリラに似てるから「ゴリラ顔」です。体格が大きめで顔がごつく、ちょっと丸っこい、まさにゴリラそのものです。これで小柄だと、「サル顔」になります。サル顔が大柄に、ごつくなるとゴリラになるのです。見た目的に体力がありそうに見えるので、就職のときなどは結構体力派として歓迎される場合が多いです。ただし、恋愛やお見合いのときはどうも有利な展開に持っていくことが難しいことが多いようです。相手がどうしても生理的にひいてしまうからでしょう。
ゴリラ顔さんの特徴
とにかくゴリラっぽい、というかサルっぽい?
見た目どおりで、何故かバナナを異様に好む。
結構頭が単純な人が多い。悪く言うと「体力バカ」なのかも・・・。
声もやはりゴリラっぽい。
相性がいいのは「モアイ顔」。逆に相性が悪いのは「キツネ顔」。
 

幸い妻はキツネ顔ではない。
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OfficePCC:中古艇相談とマリンサーベイ
 「ボート民泊試論」出版 http://usedboat.jp/boat-sharing/boatbnb-cover.html
森下一義

2016.08.12

電子書籍「ボート民泊試論」の発行

このたびAmazon Kindleで電子書籍「ボート民泊試論」 <副題:ボート民泊実現の課題を探る>を発行した。
 

<船に旅館業法は適用されない!>

 

国を挙げてのインバウンド対策の焦点の1つが宿泊施設の不足であるという。

そこで浮かび上がったのが民泊だが旅館業法との調整が難しく、必ずしもスムーズなスタートとはなっていない。

 

私はボートオーナーの立場、そしてマリーナを運営した経験を持つ立場から「ボート民泊」の推進を提唱したい。

これは私の発案ではなく、Airbnbでは既に世界の港で多くのボートがホスト艇として提供されている。

わが国でも同じようにやれるはずである。

 


 

首を突っ込んでみれば課題は多い。

ボートは宿泊施設としてのインフラを欠いている。

その欠陥をマリーナの機能で埋めたいと思うがマリーナにはそのマインドが無い。

 

課題は多く私が課題を解決する力は無い。

しかし課題をボートオーナーやマリーナ業者、宿泊関連業者、行政が広く共有することで必ずやよい方向に解決されていくものと信ずる。

 海を愛し船を愛する者として「ボート民泊」の普及を願ってこの試論をまとめた。

 



価格は480円である。

・ボート民泊とは何かを知りたい方

・マイボートで民泊収入を得たいと考えている方

・マリーナの事業多角化を考えている方

・民泊投資を考えている方

ぜひご一読あれ。

 




OfficePCC:中古艇相談とマリンサーベイ

黒潮丸 こと森下一義

HP: http://usedboat.jp/

Mail: pccgarden@gmail.com

 



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プリント版

Word原稿をプリントアウトし、コンビニコピーで手作りした紙プリント版(カラー)があります。

価格:2000円(税込、送料込)

ご希望の方はメールでお申込み下さい。 pccgarden@gmail.com

 



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< 目次 >

はじめに

目次

黒潮丸のプロフィール

第1章 ボート民泊に泊まりたい

第2章 ボート民泊-ホスト艇の条件

第3章 ボート民泊でマリーナの役割

第4章 ボート民泊の収入試算

第5章 民泊ボートは投資物件たりうるか

第6章 マリーナでなければならないのか

第7章 ハウスルール

あとがき


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Surficewheel31

2016.07.13

囲碁のこと

今朝のTVで、ある碁会所で今月になって15人も会員が増えたとTopicsを流していた。
数日前、新宿歌舞伎町の碁会所の24時間を映す番組があった。
歌舞伎町の碁会所は私も昔行ったことがある、と見ていたが創業35年というから私の行った碁会所とは違う。私が行っていたのは60年前だ。
 
私は大学生の頃、父に碁を教えてもらった。
倉庫を探したらこの写真が出てきた。懐かしい。
1995kazuumeichiigo3
 
昭和53年頃、阪急六甲の高羽町に住んでいた。
駅までの途中に「鷹羽塾」という学習塾があり、小学生の娘が自分で探してきて行きたいというので行かせた。
面白い先生で時々小旅行に連れて行ってくれた。私もついて比叡山や紀三井寺などに行った。
ある時、ふらりと三宮の碁会所に入ったらその先生が居るではないか。打ったがとても歯が立たない。
その後塾の放課後に寄るようになったが、どうしても3子以上は置かせてくれず、ついに一度も勝てなかった。
神戸を離れてしばらくして、先生の写真が大きく新聞に出た。「虹へ、アバンチュール!」という小説が第1回サントリーミステリー大賞を獲ったのだった。
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昭和58年初版 書棚にあった
 
昭和57年頃、出光静岡支店に松本某君という囲碁の達人が居た。アマチュアの6段で、全国のアマチュア中10指に入ると言われていた。
勿論静岡県のチャンピオンで、当時静岡新聞社が県チャンピオンと時の名人を対戦させる企画があり、松本某君は3子で趙治勲名人と対戦して勝った。最も脂の乗った時期の趙治勲である。
静岡県に囲碁の実業団大会があり、県庁、県医師会、ヤマハ、ホンダなど強豪に伍して出光チームも参加した。松本主将のおかげで一目おかれた。
私も初段格で出場したが全敗であった。私の初段が怪しいというより、みなが下格に詐称していたようだ。
 
雑誌の段位認定の問題を解いて提出したら3段をくれるという。認定証に5万円を払わなければならない。
妻に相談したら馬鹿馬鹿しいというので申請はやめた。
 
社内での昼休みの囲碁はだんだん遠ざかり、将棋を嗜むようになった。食事時間を除いて45分では囲碁は楽しめず、20分ですむ将棋に傾いたのだ。
絶対に歯が立たなかった相手に1年経ったら勝てるようになった。社内将棋大会の優勝賞状がある。
 
リタイア後伊東で碁会所に行ってみたが、タバコの煙に辟易して行くのをやめた。
何人かリタイア老人と打つ機会があったがどうしても3時間はかかる。3番打つまでは離してくれないのでやめた。
 
この15年、石を握ったことはない。

2016.07.09

今年の辞世句

たまたま「ハドリアヌス帝の回想」(マルグリット・ユルスナール 訳:多田智満子)を読んだ。
 
ハドリアヌスが次の次の後継に指名したマルクス・アウレリウス・アントニーヌスは私の高校・大学時代を通じて<尊敬する人物>の筆頭であった。出光への入社時にもその名前を書いた。
「自省録」はいまだに手元にある。
 
160708memoryhadrianus
 
160708hadorianus
 
​多田智満子(1930-2003 福岡生れ、東京女子大、慶大卒)の訳文が心に沁みた。
 
多田がこの翻訳を指導教官の白井浩司との共訳にと願い出たところ、白井は「一文字も直すところは無い。あなたの名前で出しなさい。」と言ったという。
三島由紀夫は「あれは本当は男の翻訳だろう。」と信じて疑わなかったという。
 
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多田は翻訳家と同時に詩人であり俳人であった。
告別式で配られた遺作句集「風のかたみ」の最後の句。
 
草の背を乗り継ぐ風の行方かな
 
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この句を読んで私の一句。
 
波の背を割きて進み̪きわが帆舟(ほぶね)  2016/7  黒潮丸
 
以前、辞世は毎年作り変えるべきだと書いた。
これを今年の辞世の句としておこう。
 

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